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「死んだらだめよ」

「死んだらだめ」

 家族や友人から何度も言われた。これは私が10代の頃からとにかく「死」を求めて生きていたせいだ。求めているものが「死」だと、息をしているだけで苦しい。気づいたら夜中に車ごと海に突っ込んだり、大量に向精神薬を飲んだり、ドアノブに紐を吊るしたり。うまく思い出せないけれど、10代の頃私はいつもこんな感じだった。
 繰り返される自殺未遂に、母が「死なせてあげた方がいいのかもしれない」と言った。とにもかくにも最悪な日々。車は3台くらい破壊したし、多額の治療費もかかっていたと思う。今これを書きながら、申し訳なさで胸が苦しくなる。

 けれどあの頃「死んではいけない」ということが本当に理解できなかった。生きていても未来に保証は何もないからだ。「死なないでと声をかけるあなたは、私の気持ちを変えてくれるんですか?」と思った。何度も。
 誰も自分のことを救ってはくれないし、私が死にたいのは生まれもったものだ。そもそも救ってほしいとか、理解してほしいとすら思っていなかった。ただ、死にたいと思い続けているだけ。その気持ちが、体調が悪いとか、失恋したとか、小さな絶望で爆発する。それだけのこと。
 生きているのは疲れる。腹が立つことも、悲しいこともたくさんある。目には見えない心の動きで、体が疲弊していくのがわかる。それから、嬉しいことと苦しいことだと、苦しいことの方が多い。人生を楽しむためには自分が頑張らなければいけない。けれど頑張る理由がわからない。そういう風に思っていた。あの頃の気持ちを、今の私がうまく文章に出来ているかわからないが、こんな感じだった(と思う)。

 しかし、私は今生きている。名前も知らない通行人に助けてもらったり、家族や親友に助けてもらったり、とにかく自殺が全て失敗に終わったからだ。10歳から死にたいと喚いてきたくせにいつの間にか34歳になって、子供2人に、猫まで飼っている。それどころか、この間「死んだらだめよ」と思った。

 だって、死んだらだめだ。死んだら何もかも終わり。明日はもう来ない。あの頃全く理解できなかった言葉が、今はとてもよくわかる。自分でも今の状態が信じられない。「死にたい」は、死ぬまでなくならない感情だと思っていたから。
 それから最近、自分の命や幸せは自分だけのものではないと気づいた。私が幸せだと、友人が「あなたが幸せで嬉しい」と言ってくれる。これは私の幸せが自分だけのものではないからだ。私が不幸だと周囲の人が悲しくなる。だから私は生きていて、更に幸せである必要がある。
 だけどこれをあの頃の私に理解ができるかと聞かれれば、絶対にNOだ。なぜなら心に余裕がないから。自分のことも思いやれないのに、他人のことなど思いやれるはずがない。昔はとにかく他人の気持ちに鈍感で、自分の気持ちにだけ敏感だった。

 奇跡だと思う。通行人が助けてくれたこと、家族や親友がずっと寄り添ってくれたこと。今生きていてよかったと思えることも。たまたま運がよかっただけだ。
 だから死にたいと思う人の気持ち、わかる。だって死んだら色々と楽になりそう(その感情はいまだに消えない)。あと気持ちが裕福な人に何かアドバイスされるのは腹が立つ。でも、そんな醜い感情を抱えながら、地を這うように生きていたら、なんと楽しいことばかりの毎日というのが到来した。苦しいことは年々なくなっていって、毎日頑張るということができるようになった。「死にたい」とは、手放せるものだったのだ。だから、適当にでも、生きてみるのも結構いいかもしれないなぁと思う。

 過去の自分と同じような人に届けばいいと、この文章を書いたけれど、あまりにも辛く苦しい日々だったので、それを乗り越えて生きていけとはなかなか強く言えないなぁ……。

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 死にたいは治る病気かもしれないので、身体と向き合うの大事。

いただいたサポートはチュールに変えて猫に譲渡致します。