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五木田智央くんと絵の話をする/一日一微発見167

「画家」というものは、「特別なものだ」と思うようになった。

アートは時代の変化とともにあるから、その流動性に対応して「新しいもの」が次々に出現する。
インスタレーションやメディアアートはその典型的なものだろう。

とりわけコンテンポラリーアートの世界では、「写真」や「ファッション」のような、アートの周縁でストレンジャーだったものが、アートワールドの中心に移行され、美術館で展示・評価され、新しい文脈に位置づけられるようになり、アートの活性化に寄与してきた。

コンテンポラリーアートの価値は、ある意味で「落差」にあるから、全く「卑俗」だと思われていた「サブカルチャー」が、錬金術的に「ハイカルチャー」に変成し、高い価値を勝ち得るようになる。

それは世の中の平均的なロジックから言えば、理解できないところがあるかもしれないが、実は「文化」が生成し続ける、大きな秘密である。

歌舞伎を見よ。
河原者が踊っていた演舞が、見豪者の将軍が礼賛することで、芸術へと進化したではないか。
しかし、初期衝動の生々しさを失い、形骸化すると、それは衰退する。
芸能と芸術の関係もそこにある。

例えば、写真とて同じで、ニオイのするモノを撮らなくなったら枯れてしまうのだ。「俗」あっての「貴」であることをアーティストたちは、忘れてはいけないだろう。

僕は、子どもの頃から絵を描いたり、ずっと絵が好きで生きてきたから、絵については一家言ある方だと思うが、最近ようやく「画家」というものは、時代の激流の中にいるくせに、その実、時代と無関係に存在できるものなのだと、やっと了解できるようになった。

この単純なことをわかるには、存外、時間と手間がかかった。

さて。
五木田君との付き合いは長い。
こんなに「売れっ子」になるとは、15年前には本人も僕も思っていなかった(マーケットで彼の絵は今や恐ろしく高い)。

海外の目の利いた連中は、才能あるやつを裸で見る力があるから、五木田君は海外のギャラリー、ジャーナル、アートコレクターによって発掘されたのだ。

それは、サブカルチャーとしてでなく、ハイカルチャーとして、つまり画家として発見されたのだった。
グローバルマーケットで上客がつくと、日本のアートワールドも急に接近してくる。これは露骨な話だ。

具体美術協会は、日本だと関西ローカルな無手勝流のアバンギャルドに過ぎないという評価で、マーケットからは無視されていたが、50年後の今では、白髪一雄の絵は何億円で扱われるようになった。これもまた、海外経由の評価である。

だから急に売れるようになったからといって、五木田君が変わるわけではない。彼は美大に行っていないが、そんな事には関係なく絵が描ける才に恵まれた。独学万才である。ざまぁみろである。

コロナで、この秋に延期された日本での展覧会の反応はものすごく、オープニング前に全て売約となった。大きな作品は、軽く千万円台の価格である。

僕は20年ほど前に、彼がまだイラストレーションの仕事をしているときに、大阪のキリンプラザで赤塚不二夫とのコラボレーションやってもらった。
現代美術の展覧会をやる場所での、デビューであった。
そして、実は僕も、正規の「アートスペース」でのキュレーションのデビューといってよいものだった。

僕は編集も独学だが、アートも独学である。見ようみまねのキュレーションだが、価値生成や目はトレーニングしてきているから、40年代になってからのデビューだったが、こわくはなかった。

その時に、五木田くんは大きな赤塚不二夫のキャラクターをモチーフにした、コラボ作を作った(それはもうないが、写真が残っている。探せばあるはずだ。)

五木田君は、その当時から恐ろしいほど瞬発的な腕のある男で、とりわけ線は生き物だった。
その動物的な洗練は、子供時代からの音楽によって養育されたもので、社会のルールに、奇跡的にスポイルされていなかった。

赤塚不二夫が天才だったように、五木田智央の線や配置の力も、もはや死滅しかけている天才のものであった。

当時まだ彼の本は、リトルモアから出た『ランジェリーレスリング』というタイトルの本しかなかったが、名作である。しかし、これをしてもまだ、彼を「画家」だと思う者はいなかった。
あれから月日はたち、評価は劇的に変わったが、僕らの関係は変わらない。

今回は、吉祥寺で会うことにした。前に逢ったのはコロナが始まる前で、今回の個展の絵はまだ1枚も書いていなかったと思う。

遅刻しないように10分前に行ったら、五木田君はもう来ていて、ビールを飲んでいた。

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