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「クリティックの再生」ということについて/一日一微発見285

僕は「編集」の仕事やインタビューの仕事を長くやってきたので、全ては、人や作品に対する「リスペクト」から始まるものだと思っている。

同時に「対話」やデザインでの「ディレクション」や、アートにおける「プロデュース」でも、いつも気にするのは、人と人にまつわる「関係」、その「距離」だ。

古臭いと言う人もいるかもしれないが、アーティストとは親しくなりすぎてもダメだし、その人以上にその人を理解するのをどうすればよいか、と考える(そんなことが不可能であったとしても)。

さて今回書いておきたいのは、クリティックにおける「距離」や「目線」のことだ。

古い批評文の基本は「上目線」で出来てきた。よくわかった者が、よくわかっていない者を価値づけるのだ。
批評家は「偉い人」であったのである。

審査する「先生」は、クリティックの権化である。他人が作ったものを論ずるときに、その制作の苦労や複雑なプロセスを断って、その制作物の「良し悪し」をバッサリと裁定するのである。

なんの「権利」があってそんな「偉そう」なことができるのだろうと思うのは当然だろう。
「先生」という肩書きや「年齢」があるからといって「偉そう」に振る舞ってよいはずはない。

よく「経験の量」により、自らの「審美目」や「見識」を正当化する人もいるが、それもどうだろうか。

「眼高手低」というコトバは良いコトバではない。調べると、
「目は肥えているが、実際の技能や能力は低いこと。知識はあり、あれこれ批評するが、実際にはそれをこなす能力がないこと。また、理想は高いものの実力が伴わないこと」とでてくる。
耳に刺さるコトバだ。

しかし、たしかに優れた批評家は、この「眼高手低」を上回る存在であったことも明言しておかなくてはならない。

人間が人間になるためには、クリティックの力はなくてはならないものだ。
これはどんな時代であれ、変わることはない。
クリティックはクリエイティブの根本だ。

しかし、今、クリティックは分が悪い。
世の中は2010年以降は、SNSが社会全体のインフラの時代となり、「いいね」や「フォロワー」の数がクリティックにとって変わってしまい、旧スタイルの批評家の言説はますます「古臭い」もの扱いになった。
新聞は部数を激減させ、論壇は時代への影響力を失効した。もはや、思想的な言説は、限られた人々の密教的なものになろうとしているのだ。

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