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中平卓馬・森山大道プロヴォークから54年目の熱い夏/一日一微発見393

ベンヤミンは、複製技術時代の到来によって、それまで芸術の価値をささえていた唯一性にもとづく「アウラ」が消滅してしまったと書いた。しかし、それは喪失を惜しむというよりも、機械による新しいアートのステージへの移行の期待感がいりまじったものだった。

誤解してはならないのは、「アウラ」が死滅してしまったわけではなく、機械たちが新たな「霊」(マルクス)を生み出し始めた。つまり、大量生産される商品は新たな欲望喚起装置となったし、写真はその新たなフェティッシュ(物神)を生産・増幅するものになったということだ。

なおかつ「アウラ」を失ったものたちも「ゴミ」になるわけではなく「骨董」や「ヴィンテージ」という名の「ゾンビ」として新しい時代に蘇生してしまった。

柄谷行人は著作『力と交換様式』という快作において、我々が住む資本主義世界においては下部構造としての生産様式ではなく、交換様式が、下部構造に規定されない、独自の上部構造としてふるまうことを分析した。
彼のコトバを使うならば我々の世界の特徴は、「贈与と返礼」に規定された「互酬」の「交換様式A」を高次元で回復した「交様様式D」の世界に生きていると言える。

柄谷行人は、交換様式の推移を分析するために、全世界史を検証しなおすという労をへて、この「支換様式D」がマルクスの思想を再評価
するために行った。

この柄谷の本は、たまらなく刺激的ではあるが、あらためて考えてみると、柄谷の言う「交換様式D」を最も活発に行っているのは、きらびやかな「ハイブランドファッション」の商品と、コンテンポラリーアントにおける価値生成なのだと思うが、残念ながら原論的なこの本には、アートのことは、全く触れられていない。

商品による「交換様式C」は同時に「物神」を世界に霊として放った。これは決して古いアニミズムではなくて、機械じかけの霊、別の名をフェティッシュというものなのだ。

シュルレアリズムは、フロイトのフェティッシュ解釈の回路を使ってアートを生成したものだった。シュルレアルと商品は競合関係ではなく兄弟姉妹なのである。

しかし、それ以上に問題とすべきはモノである。「物神」の主体はシュルレアルがとった超自我ではなくてモノそれ自体の方にある。反精神分析としてのモノこそを問題にしなくてはならないのである。

そこで写真の登場である。

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