見出し画像

旅の終わりに思うこと(次なる始まり)/一日一微発見383

今、マドリッドから飛行機にのってきて、ドバイでトランジットへ。今は、夜中の12時35分ぐらい。着陸直前に思いついて、これを書き出した。
座席前のモニターには接近してくる夜中の滑走路が映し出されていて、ところどころに光が点滅している。前の座席の人の別のモニターでは道路や家がみえる。
闇と光。飛行機は誘導され滑走路に入る。ゲームのよう。おっと、無事に着陸。

着陸したあと、TS4というゲートを探して、信じられない長い道のり移動の始まり。珍道中。エレベーターを何回も上下し、連絡トレインにのり、あげくのはてにて、長い自動道路を歩いて、やっとエミレーツの関空行きのゲートにつく。

そこには、今回の旅ではほとんど遭遇しなかったたくさんの日本人と、大阪に向かうアラブ人ファミリー、合気道の漢字が入った西洋人グループが集まっていた。僕らは日本に帰るのだが、彼らは日本に旅をする。

いや、僕らは帰るのだろうか?
つねに夫婦で移動するようにしているから、帰りを待っている人がいるわけではない(仕事は別)。日本に住んでいてもつねに「仮」だから、僕らも日本への旅をしているのかもしれない。

僕が本格的に海外に出るようになったのは、80年代の後半からで、社会に出てから、つまり編集者や広告のクリエイティブディレクションをやるようになってからである。

だからバッグパッカーや冒険や登山、そしてレジャーのための旅のようなものは、ほとんどしたことがない。たいていは、人や場所やイベントを取材・撮影するために写真家とコンビを組んで「旅」をしてきた。

僕は飛行機が大嫌いだが、自分の「どもり」とつきあうために逆にインタビュアーになってしまったとのと同じ感じで、「にがて」な飛行機とつきあうために、海外に毎年出ることになった。正確にはわからないが、ざっと年平均5回ぐらいだから30年間、つまりは150回以上は海外を旅してきたことになる。

時には1人のことも多く、かたことの英語だけでのりきって、無事なのだから、本当に驚きである。金もないから都市をいつも歩きまわってきた。日本人とはなるべくつるまない。つるんでいると「外」にいる感じがしないからだ。

こうやって、次のデスティネーションにむかうトランジットのベンチにすわり、考えたり、観察したり、気づいたことをノートに書いている行為自体が、いったい何なのかとも思う。

まわりを見る。さまざまな人とすれちがう。
しかし、彼らとは交わっているとは言えない。
ここで経験していることは、世界の基本は「すれちがい」であり、出逢うことは「ミラクル」であるということだ。その様を、まじまじと体験することが、目の前でヴィジュアライズされているのだ。

せっかくなので今、ここで、自分にとって「旅」とは何なのかについて考えてみる。

①旅とは「まぜあわせる」効用がある。

ここから先は

1,916字

¥ 150

応援よろしくね~