見出し画像

裸の眼で見る① パウル・クレーについて/一日一微発見353

AIはすべてをコトバで、さも「わかったかのように」書く。
しかし「彼」の悲しいところは、「わかる」ということも「まちがう」ということも、彼の回路の中にはない、ということだ。
おそらくはこれからの時代は、そんなAIに人間がふりまわされることになるだろう。
「彼」を作ったのは、人間であるにもかかわらず。もはや人間は劣化する。自分で見ないし、自分で考えない存在に陥っていくだろう。

最初はAIを道具だと思っているのだが、気がつくと道具に自身が使われていることになるのだ。
今起きている戦争も、互いの軍部はAIに作戦を考えさせ、AI将棋のように作戦をつくり出す。しかし、最悪に愚かなことは、そのAIでシミュレーションした戦いを人間が実行し、人間が死ぬということだ。その愚を人間はみずから止めることができないのである。
これは人間が人間全体を、そして地球を亡ぼしてしまうことが近づいているということをしめす。
AIはおせっかいにも、すでにそれが止められないことすら、証明しているかもしれないのだが。

「おまえの目はフシ穴だ」とはよく言ったものだ。穴はあいていてもナニもない。目ではなく穴。
もし人間が亡びたくないのならば、馬鹿気ているように見えるが、アートに向かうべきだ。アーティストにならなくては人間は生き延びられないだろう。

それは道化、ピエロのようだが、ピエロは王様の前でも冗談やバカ話や失礼きわまりないことを言うのだから上等だ。ダダイズムはアートのピエロであった。

今日は詩人・田村隆一の誕生日だった。彼はちょうど100年前の3月18日に生まれたのである。
詩人としての彼の偉大なおしえの一つは、「目は器官にしかすぎない。目を肉眼にするのが人間のつとめだ」と言ったことだろう。

田村隆一もまた、酒を愛し、笑いころげるクラウンであった。詩ほど反AI的なものもないだろう。先生が生きていたらなんというか。

さて本題である。
これからタイミングをとらえて「裸眼で見る」ということを意識的にやり、考えていきたいと思っている。AIによる世だからこそやりたいのだ。

なんの先入観、予備知識なしにモノを見続けること。前に橋本治の『ひらが日本美術史』をとりあげたが、彼は「肉眼」を透明にし続けることができた達人だった。

他だと誰だろう。青山二郎の『眼の引越』『青山二郎全文集』は耽読したが、今では「渋スギ」るかもしれない。小林秀雄の名エッセイ「真贋」も。

年齢をとると人間が骨董になるせいか、趣味も「骨董」「うんちく」ぽくなるので要注意だ。

それよりもジョン・バージャーだろう。
いかんせん『見ること』や『イメージ』など翻訳されているものがかたよりがあって、バージャーという「怪物」の全体が正確にとらえられない。(これは課題!)

ケネス・クラークの『絵画の見かた』も愛読書であり、彼のクールベに対する目(ちなみにジョン・バージャーもクールベについてのすばらしいエッセイがある)は偉大なる裸眼の先導者と言える。
しかしクラークは、具象世界の人である。ゴンブリッチもフランシス・ベーコンどまりで亡くなった。

なかなか「目」を「肉眼」に導いてくれる先輩はいない。

ここから先は

1,977字

¥ 150

応援よろしくね~