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3.10年ぶりの歯医者

 だが、夫はどこか腹を括ったようだ。意外にも落ち着いている。

 夫は昔、通院していた歯医者で麻酔が効かなかったことがあるらしく、それがトラウマになって歯医者嫌いになったようだった。実は夫はここ15年近く、安定剤を服用している。今では数日おきの服用で自分でコントロールできるようになったが、その薬の影響なのか、はたまた持って生まれた性質なのか、本人曰く麻酔の効果が薄いらしい。何年か前に胃腸の内視鏡検査をしたことがあった。麻酔で眠ったところに鼻からカメラを入れて検査するので、痛みもなく、起きた頃には全て終わっているという検査だ。私も同じ検査を受けたが、看護師さんが頭上で準備をしている時に一瞬目を瞑ったと思ったら、もう終わっていた。
夫はその時も完全には眠ることができず、体内に入ってくるカメラの動きを鈍く感じながらぼんやりと検査を受けたそうだ。

 夫は洗面所で念入りに歯を磨いていた。「麻酔が効かないかも」と話すので、「最初の問診票に、麻酔が効きにくかったこと、あと普段飲んでる薬のことも書いた方がいいよ」と伝えた。「あと、私が通ってみた限りでは知り合いはいないと思うよ」と。何せ夫は、口の中の状態を見られるのを気にしていた。よっぽど酷いのだろう。私の前でも頑なに口を大きく開こうとはしなかった。万が一、その歯医者で知り合いが働いていたらと思うと足がすくむのも頷ける。だが夫の返答は意外にも「もう良いよ。行くって決めたから」だった。

 とは言え、歯医者が入っているビルの前までは一緒に行った。中まで一緒に付き添うことも提案してみたが、流石にそこまでは大丈夫とのことだった。夫の決意とは裏腹に私の方が不安になってきた。人通りのある場所なので、ビルの入り口で短く「大丈夫だよ、行ってらっしゃい」と言ってお互いに軽く手を挙げて別れた。自動ドアを入り奥のエレベータまで歩く夫を見つめながら、私は「こういう時だけ呼んでごめんなさい。神様。どうか、よろしくお願いします」と祈っていた。

(続く)

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