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2022/10/07

 ぼくたちは延長線上にいて、文字と直接対決するまでもなく時間を縫合する。しかし飛ぶ、その跳躍は全てを消すかのようだ。誰かがそこにいて、そのままぼくは、千と千尋のように透明になってゆく。文字は裂断を生むが、それ事態はそもそも空だ、異能だ、散弾だ全部だ。走ることがどれほどの意味を持つのかはわからないが、耐え難きを耐え、その先に続く文字を破る。声はもっと甲高く、あるいは地割れを生むような振動を孕み、絶句する少年少女たちの頭を割る。詩は音域を重視する、それが日記本を仲間達と作って売るつまらない人たちの繊細さと同じものであってはならず、そもそも文とは、声の傷であり、肉片の充血であり、巨大モルモットの自慰である。モーツァルトとシューマンの音楽には自我が無い、それを自由と呼ぶのなら、私は文字に拘束された不自由を選ぶだろう。限界を設定することによって破鏡的意味の分裂文字となる。あなたが一歩踏み出すことが容易であると考えるなら、私はそれに従い、絶望的な夕焼ノ水分ヲ文字ニ刻印ス。

 あなたはどこにいるのか。
 ワタシハ ココニイル.

 俺はもう書いているとは言えない。あと数ヶ月は文字盤を失ったまま雨曝しの中を走るしかない。俺は文字と向き合っているのか。俺にはソーダ水の気泡のような辛い過剰さが今はない。言葉はどのようにも使える、と人が思うときそれはもう言葉ではない。言葉をあきらめない。コトバヲアキラメナイ。文字を書く手を止めない。手痛がんじがらめに文字状の殺伐。
 そこで生きていたんだね。扉、指でめくることができたんだね。言葉に意味を持たせないことで文字の物質化は完成するが、言葉の肉体性と言葉の神性の衝突、あるいはぶつかり合いこそが、言葉だ。

 手書きの意味について書こう。私はこのところ手紙を書き、ついさっきも書き、その紙は盗んだ紙で、百枚188円、文字組の指定なし、紙は白く、空白であるが、ディスプレイとは違って全部違う繊維だ。
 万年筆で書く文字は、Tシャツ貸してあげようか、って言ったりはしない。凄まじく速く歩く人と、ゆっくり歩きたまに後ろにめくれあがる人とは、文字の性質が違う。体はいろんな音と動きをつくり出し、誰かに話しかけられている最中にその誰かが突然消えるようなことは起きえない。論理的整合性こそが憎まれるべきだ。頭の良さとは、脳みその論理のことではない。パターンこそが論理的整合性だ。
 ほら、そう言った。
 確かに異世界ものの主人公たちは、声を失っている。
 同じ場所で戦ってはいけない。戦うとは、場所を作ること。

 モッツァレラって知ってる?
 知ってるよ。おいしいよね。
 うん。
 本に印字された文の魔術的な連想性については?
 うん。
 魚や、ヌーヴェルヴァーグの巨匠たちの、酸性雨が染みた茹で卵は?
 知っているよ。
 首が折れた騎士や、性器の中にアルファベットが入って肉信号が明晰になった老紳士は?
 そう、女であることから逃れたんだね。
 うん?
 男であることで、女であることから逃げたんだ。
 その論理、精神困憊的愚術だね。

 さまざまな温度で、そのさまざまとはここに明示することができない色彩の抑揚で、彼女が真夏の青空に浮かぶ雲を見る少年のようであるからと言って、それを伝えることは、比喩の死である。
 人物は千切れることで紙となり、信じることは心のやわらかい毛皮をなくすことだ。
 だってそこに文字、刻まれているから。
 信じることは、文字を消すことに他ならない。
 先生たちが、いろんな角度から、私の死体を見る。かつての死体は、腐らずに現実過去に保存されている。ブルガリアデータのように。
 私にとっての女性について考えることが、この地点からの跳躍の兆しをつくる。
 私にとって女性とは、自我の欠損を補い、私を私にする人。
 私にとってあなたは、私を仮想から連れ出す人。
 私にとって私とは、自我の境域を核実験のような先進国的領土とすること。
 それが存在するとしたら。
 それを私に教えてくれる人。
 声は実物の波動を含む。実際、私はとても楽になったのだよ。

 それは神がそこにいるからだ。信仰は絶えず混沌を混沌たらしめるが、それ以上に神の光に照らされる新緑のささやく憂いを見る、一筋の心の亀裂となる。

 神について。私はある時期、新約聖書の福音書に救われたのだった。けれどそのぜんぶを読んだのではない。むしろほとんど読んでいないと言っていい。それでもその文庫本を手にしていると、気持ちが楽になった。信仰は苦しみのないところからは生まれない。強烈な苦しみは、信仰をそれ以上の依拠を求める力を失うから、信じることのみとなる。

(未完)

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