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2022/10/06

 今日から十日間四千字原稿を書く。自らをある状態に縛ること。四千字原稿状態。魚が跳ぶ。動物が水の中に入る。私たちはずっと手を見続け、その手が異常な具有物を放つところを、ある定点から見る。私は常に二人以上いることを、ドゥルーズが教えてくれたのか。誰かが言ったこと、誰かが書いたことを、そのまま受け取ることはできない。必ず自らに強引に翻訳をしているそれを、そうであることを知らずにまるで自分の考えのように使ってはならない。人は皆違う。しかし人は人であり、それぞれが特性を持ち、あるいは特性を持っていないという特性を持ち、その上で、我々は関わりあう。水を飲む人、家に火をつける人、気づいたら百八十キロ先の見知らぬ墓で自慰に耽る人。共有できないということについて考えているが、それ以上に私は目の前の花について考えたい。自分自身が絶えず変わっているような気がしているのは、毎日文章を書いているからで、その文章は確かに違うが、それを書く私は同じなのか。僕らは時間を戦わせる。間違ったことを言ったり書いたりすることは、自分自身からはみ出ることで、当たり障りのないことを言ったり書いたりすることは、その環境、その身体に対し、受け身で居続けることだ。間違うこと。間違った後に、それを他者からの視線を込みで見ること。見て、考えること。受け止めること。次の動きに向けて、歩み出すこと。哲学・批評的な思考の身体性をより運動的にするために、いる場所を変えること。その場所にいる身体を変えること。外からの定義の拘束力に抗うこと。障害者であるということ。病者であるということ。障害者とは、欠落を抱えているということなのか。病者とは、社会に対しての結び目がほぐれた状態のことなのか。私たちは自らを、その欠落や社会とのゆるみを部分として捉えるのではなく、それを外からの定義として安易に受け身でいるのでもなく、全体として考えなければならない。自らの特性、特異性を、あらゆる思考の基盤とすること。障害や病は社会との関わりの前提を意味する上で、大きく言えば世界について考えることなのだ。自分がいつまでもそこにいる可能性が恐ろしいほどあり、そこで体は植物状態のようになることを幻視すること。
 私は誰にも縛られていない。私は自らに縛られている。
 私が誰にも縛られていないというのは、一つの理想であり、その状態に持っていくことが、今やるべきことで、自らに縛られているというのは、その前身に向かうための契機である。契りである。私たちはじっと手を見る。本当に見ることができているのか。
 そこにあなたがいて、それを私が信じて、でも信じる力だけでは足りない。信仰者が神に会いたいと思うように、私はあなたを信じるだけではなく、信じるということが失われても、そこにいてほしい。
 信じることについて。信仰について。誰もが信じる力によって成立されるコミュニケーションをしているが、しかし人は自分が信じているものを信じすぎて、本当にそこにいる相手の話を聞けているのか。信じることによって人は簡単に対象の、対象物の形を変える。しかし信じることを剥奪することでは、世界の実像に近づくことはできない。空気があると私たちは信じているからここに空気があるが、信じていなくても空気があるから私たちは呼吸ができ、動植物は生きることができる、けれど、それもやっぱり信じることによって支えられている。ここには空気がない、と本当に信じてしまったとしたら、彼または彼女は呼吸することができずに死んでしまうのではないか。神や超越者を信じることを現代の人々は否定する。科学はそれを担っているが、私たちは科学ではなく言葉によってできているのだと、もう少し真剣に考えてみないか。恨みがあるからといって刃物を持ち、相手を刺す人は、何を信じている。私たちは何を信じ、それによって何を支えられている。信じなければならない時代に、信じることによってのみしか存在しない神が、信じられなくなっているという逆説。信じることが過剰になることで、言葉の力が失われ、言葉である神もまた、稀薄になること。その場所について考えるためには、その場所から離れなければならない。体と、場所について。文章を手書きで書くことは、それだけで超えたものがある。
 自らに縛られることは、書くことでも起こる。脈絡のないことを書くこと。しかしそれは自由連想的であり、私たちには危険だ。
 では一つのことについて書くのか。オープンダイアローグに対して私が考えている否定的な部分は、個を個として取り戻すオープンダイアローグでは、超越性を奪うことになるからだ。
 医療は苦しみを軽減するためにあるのか。ゆるんだ、あるいは解けた個を取り戻すことは、世界のすべてに結び目をつくり、つなげることにある。しかしその場所でアルトーは生きることができるか。超越的なものは生まれるか。苦しみは生まれるか!一人の人間の、孤独な死という尊厳は、守られるか。
 手が動く。その手、体の一部としてあり、と同時に切り離される瞬間がある。
 対話は重要だ。しかしその対話が、治療的であるというところに焦点を当てることは、つまらない。
 私が今こうして一つの方向に向かっていることもまた、つまらないことだ。

 インプロヴィゼーション。

 花は咲き花は枯れ、咲きも枯れも言葉に留まることなく解放され、自由に動き回っている。内から外へ、外から内へ。その領域という概念もない真の自由へ。
 実際に私はこの体を絶えず動かしながらこの文章を書いている。机に向かっては立ち上がりうろうろし、変な動きをしながら、それが言葉を引き出し、ディスプレイという狭域に止まらせない何かをうむ。ディスプレイがもし、破壊され得ないものだとしたら、私たちはもうどこにも行けないだろうが、そもそもその方へ向けて考えることは、私たちを奪われることになるか。
 それは道具なのか、それとも私たちの同一性なのか。それは捉えられないものなのか、それとも信じることによってあるものだから、電源を切ってもそれはあるのか。
 その写真は瞬間が冷却されるのではなく、瞬間が世界を内包し、世界それ自体になってしまっているのか。
 もしかしてもうどこにも扉はないのか。
 テロを起こすしかないのか。神は存在しないとして、人を殺すしかないのか。
 信じることにおいて、殺すとは何か。

 私がこれを書きながら考えているのは、その内容だけではなく、この書き方という問題もある。書くことは一つの形式であるべきなのか。私たちの異物は、どの地点で混ざり合うのか。
 ある画家がわたしは自分が描いたとは思われないような絵を描きたいと言っていたが、その画家の絵は誰がどうみてもその画家が描いたものであるということ。
 ばらばらの意見が、一つのテーマによって統一されることなく、存在すること。それがオープンダイアローグなのか。ああ、僕はまだオープンダイアローグをわかっていないし、そこまでわかろうともしていないらしい。

 本を読む手、文字に傷を作ることで文字が物質化する、物質とは何か、文字とは何か、傷とは何か! 私たちの思考は、どこでとまり、どこから動くのか。動きとは何か!
 意味はどこで固定し、その先へ向かうか。一文字、一単語は、私たちに何をもたらすか。
 何をもたらすか。

 信じる必要なくそこにいて、その相手が私がいることを信じているということ。私がここにいるということを、その相手は認めてくれるけれど、決して私だけを信じているのではないということ。

 ぼくはあなたを信じている。
 それは今、神を信じるように不毛で、でも強くある。

 さまざまな場所で、私が誰かの存在を感じるとき、それがあなたへと向かう。まさに神に対するように。
 私には神しかいないように。
 信じなくてもあなたがいるとしたら、今のぼくには想像のつかない強さになる。

 言葉を信じること。言葉の力を信じること。言葉を諦めないこと。
 私は皆の中にいる神を信じます。それがどのようなものであれ、たとえ多くの人に否定されるものであれ、私はあなたを信じます。
 力をください。

 インプロヴィゼーション。統一を作らず。一つにせず。ばらばらで、不自然なまでに自然であるがゆえに不自然。不穏。決してうつくしくならず。
 想像すること。

 ぼくはあなたが好きだ。

 私は同じ場所にはいないし、同じ動きをしないし、思考も変わる、私がここにいると言うにはあまりにも難しいあり方でここにいる。そのぼくをいると感じてくれる。

 ぼくはあなたが好きだから、みんなのことが好きだ。

 わからないときがあってもなくならないということがわかるんだ。

 存在の愛のみずみずしい憂いだ。

 地球儀は回り続けても地球儀だ。

 今の僕は見るものすべてが見えなくて、体も千と千尋の冒頭みたいに透明になりそうで、いや私の体感ではもう薄く透けていて、このままでは危ない。
 すると、私たちは閉ざされる。閉ざされることによって、私はここにいるという感じがしてくる。じわじわと。書かれる手紙の筆跡の音を聞くように。
 鉛筆か、それともペン、それとも。
 手紙を待つこと。
 現実を信じること。
 私から始まると同時に、あなたから始まる。
 ずっと繋がっているとわからないことを、あなたは教える。
 読まれることのない手紙、届くことのない手紙。
 僕は気持ちよくあなたの静寂に耳をすませる。誰になんと言われようとぼくたちはいる。そのことをあなたに、そして私に伝えたい。
 鏡の時代は終わったんだ。
 精神は強くあろうとする。体はつぶれても。
 精神は体だから。自我は死体とともにあって。
 音律は論理を超える。信仰は他のものに独立するのではなく、すべてになる。
 私は感じている、ここにいる私をあなたが感じていることを。
 彼はまだ知らない、私があなたを感じていることを。

 物理法則よ、それから狂気よ、私たちに実相を与えたまえ。

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