見出し画像

考え事 ー新入社員と社長ー

 四月、勤めていた会社に、一人の新入社員がやってきた。専門学校を出て就職で、その当時二十歳の青年は、どこか不器用だった。その不器用さは、高校生か、あるいは中学生かと感じるような、幼さのようにも見えた。仕事は彼なりの丁寧さはあるようだったが、早く動く人の1/4ほどしか進まない。おそらくそれは、彼の中に流れる時間の速度だろうと見て取れたが、問題は彼が自分を取り巻く環境の速度を意識できないことと、会社の社長が彼の速度を理解できないことだった。さらには、私含め他の人間も、フォローするような余裕はなかった。私などは彼の状況がそのままかつての私の状況なので、理解もできる。コミュニケーションも下手、どころかそれの必要性すら腑に落ちておらず、動きはゆっくり、自分なりの譲れないこだわりがあり、身体の使い方もいまいち心得ていない。具体的に言えば、何か質問を投げかけても必要最低限の返答しかないので会話が続かなかったり、昼休み誰とも自発的には話すことなく、弁当を食って眠ってしまったり、ひもをまとめてカッターできるときに、刃を自分の方に向けて切ろうとしたり、私より体格的に腕力はあるはずなのに、私が持ち上げられるものが持ち上がらなかったり。
 彼にはできることがちゃんと沢山ある。毎日時間通りに自転車で出勤すること、一人暮らしで自炊をすること、しかも毎日弁当を自分で作ってくること、伝票処理など事務的な決まりごとはわりとすぐに覚えてできること。正直柔軟性はないが、確実に一歩ずつ覚えていけば正確に仕事ができるだろう。あとは、時間はかかるだろうが、彼に周りで流れる時間を意識してもらうように、何度も働きかけるしかない。実際、一度何も言わずにやらせてみて、結果を見せ、これは普段他の人がしている仕事より遅いということを指摘すると、なんと彼は次から一気に仕事が早くなった。早くなったじゃん、と声をかけると、「他の人の動きを参考にしてみました」と言う。彼は意識さえすれば他の人の動きを正確に観察し、取り入れることが可能だ。
 しかし、一つのことならいい。あちこちに気を配ってマルチタスクをするとなると、習得にかかる時間は、他の人の何倍もかかるだろう。車の運転などは確実に不向きだ。そして先述の通り、教える側にじっくり教える余裕がなく、さらにそのトップたる社長に至っては、性格的にも、「なぜ彼がそうなのか」が全く理解できないだろうし、彼のようなタイプへのアプローチの仕方に至っては、社長とその父との口論から見ても、社長の普段の指導からしても、全くとんちんかんなことをしてしまうだろう。青年の場合はそもそも口論によって他人とコミュニケーションを取らないし、どうしてそんなに社長がイライラしているのか、彼の方でも性格的に理解ができないだろう。社長の中にどうして他人にそうもはげしくぶつけないと気が済まないほどのエネルギーが湧いているのか、青年とわりと同じタイプの私も全くその感覚はわからない。

さて、しかしここで本当に問題なのは、性格の異なる二人が、それぞれの人生において、全く違う性格の人間に対する理解を深めてこなかったことにあるのではなかろうか。実際に感じていることは一生かかってもわからないかもしれないが、ハプニングがあった時、ある人はそれに対して怒りを覚えるし、またある人は悲しみが込み上げてくる。あるいは何が起こっても笑いが止まらないかもしれないし、ハプニングが起こったことにすら気が付かないかもしれない。そんなふうに色んな感じ方があることを知っていれば、多少なりとも歩み寄ることができるだろう。
 社長の場合、偏見や差別意識はないのに、性格の違う人を理解できないがために、相手を傷つける言ってはならないことを言ってしまう。「人として当たり前のことを求めているだけです。」のような。そんなつもりはないのだろうが、相手に「あなたは人として足りていない(え、人以下ってこと?)」と言っているようなものだ。こうしてあなたを指導している私より、あなたは劣った存在である、と。でも本当に「そんなつもりはない」のだ。自分がどんな言葉を発し、それがどんな意味を持つのか、わかっていないのだろう。では青年の場合はどうだろう。彼はおそらく、自分の中に理想はある。将来独立したいと言うくらいだから。ところが彼はまだ理想に立ちはだかる現実をいまいち認識できていない。彼は明らかに社会の速度についていけていないし、会話が乏しいながらも会話を持ちかけると、独立したいわりには具体的にどこで何をやりたいかというビジョンがあまりにもふわっとしている。そして自分がもっと他人に興味を持たないといけない、とかそういう危機感すらあまりない。自分が他人にどう思われているか、どんな風に見えているか、に関してもあまり興味がない。
 二人の共通点がある。それは自分を客観視することができていないことだ。そこが、性格の違う他人への理解が深まらなかったことと密接に関係しているのではないだろうか。「他人は自分の鏡」と言う。周りから見て自分は、自分の態度は、自分の言葉は、どんな風に見えるか。そしてそのためには、周りの人間のこともよく観察する必要がある。特に自分の理解できないようなタイプの人間のことこそよく知らなければ、そういう人間が自分をどんな風に見ているのかわからない。
 ではなぜその作業をしてこなかったのだろう。たぶん人生の適切な時期に、そういう作業が必要なのではないか。そしてそれは、誰かが教える必要があるのではないか。二十歳にして、ひもを切る時カッターの刃を自分の方に向ける青年に対して思ったのは、この歳まで誰も、彼のこのような動きを、危ないと指摘する人はいなかったのだろうか、ということだ。あるいは、私にそれを教えてくれた人を私は覚えてはいないが、傾向として私もこういうことをするタイプだったので、そのたびに誰かが、それを指摘してくれたことはなんとなく記憶にある。もしかしたら、指摘する人はいたが、彼がそれを認識するまで根気よく付き合ってくれなかったのかもしれないし、日本の義務教育の特性上、同じ人が彼に関わり続けることができなかったのかもしれない。一見おとなしいし、問題を起こすわけでもなく、教えられたことはそれなりにこなすから、後回しにされたり、放っておかれたりしたのかもしれない。刃を自分に向けていたって、彼は持ち前の器用さと慎重さで、そのために怪我をすることはなかったかもしれないし。社長の場合はその余りあるエネルギーへの対処の仕方が問題になる。いったん怒りや苛立ちをおぼえてしまった時に、それをそのまま他人にぶつけたらどうなるか。あとは国語、言い換えると日本語の使い方。言葉の持つ表の意味、裏の意味。表の意味のみを伝えたかったはずなのに、裏の意味が伝わってしまって誤解を生むのが人間の使う言葉の複雑さだ。
 カッターの使い方は、特別教えなくたって社長は子どものころからできただろうし、社長の中にあるようなマグマのようなエネルギーはそもそも青年にはない。二人に教えられるべきだったことは違う。しかしながらそれらは全て、自分が生きている世界に目を向け、自分をも含めて客観視できる力を育むことではないか。平らな地面の上に生きながら、地球儀を理解するように。日本人が、日本とは、大陸に比べてこんなに小さな島だ、といまいち認識できていなかった時代には、攘夷という、要は日本に入ってくる外敵を全て討ち払え!という暴論が幅を利かせていた。しかし攘夷を唱えた者たち、当の本人たちが、やがては現実を知り、髷を切り洋装に身を包み、外交を担うようになった。

ろくに論にもなっていないが、つらつらと思うところを書き連ねてみた。私はどうやら、こういうことを考えるのが好きらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?