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『耳をすませば』 ”近代化された「内面」と「性的な身体」を持つ前の「少女」マンガ”として読む

 映画『耳をすませば』を観ました。開始10分で全てが完璧で美しすぎて泣きそうでした。

 冒頭の夜の郊外都市の夜景を空中からロングで映し出す映像、そして主人公の雫の描写。Tシャツと短パンでコンビニに牛乳を買いに行く。「ビニール袋はいらなかったのでは?」という母親とのやり取り。麦茶の保存用ボトルを冷蔵庫から取り出してそのまま口をつけて飲む等々。その細やかな描写の数々が美しすぎました。

 この映画には2つの側面があります。その一つがまず、この映画が「郊外映画」であることです。それは冒頭の夜空から多摩地域を映し出すショットからも伝わってきます。都心から私鉄で30分の郊外都市。そこに物語があるんだ、という映画です。

 主題歌の『カントリーロード』からもそのことは伺えます。「この道ずっとゆけばあの街に続いてる気がする」と歌ったこの歌は、もともとは故郷をなくしたことへの哀愁を歌ったものでしたが、この映画ではそれが「この道」が「あの街に続いてる」と希望的なニュアンスを含んだ意味に読み替えられています。これはつまり、故郷をなくしたこと=都市の郊外化の意味を肯定的なものに読み替えているのです。故郷がないことに哀しむ必要なんて何もない。郊外都市に「物語」はある。それを描いたのがこの映画なのです。

 この映画のもう一つの側面、それはこれが「少女マンガ」であるということです。ここで言う少女マンガとは、単に「りぼん」「なかよし」などに載っているような少女向けコミックという意味ではありません。「内面」と「性的」な身体を持つ、成熟した「女性」になる前の「少女」を描いたマンガという意味です。

 この「少女」とは、文芸批評家である江藤淳がその著書『成熟と喪失』で「母の崩壊」として描いたものを、社会学者の上野千鶴子が「近代化に置いて女性性が担う軋みを表している」として評価した問題意識に通じるものです。批評家・作家の大塚英二はそれを『江藤淳と少女フェミニズム』で「少女フェミニズム」と名付け、または『おたくの精神史』で「フェミニズムのようなもの」と呼称しました。そしてそれを花の24年組といった作家たちから岡崎京子へと引き継がれたものとして論じています。

 消費社会化(=近代化)された都市の中で、そこで主体化された内面と、性的な身体を持つ女性の「軋み」を描いたのが岡崎京子ですが、『耳をすませば』では「近代化」が「郊外化」に置き換えられ、そこで「内面」と「性的な身体」を持つ「女性」になる前の「少女」を描いているのです。

 そして、郊外都市をこの作品で美しく描いているように、その姿を活き活きと描写したこの映画は、そこに生きる「少女」にも賛辞の意を表しているのです。

 しかし、この映画、作品の中で重要な「乖離」を引き起こしていることに気づく人は少なくないと思います。郊外都市の団地の中で暮らす雫の姿と、町の外れで老人と会って虚構の世界に入り込む描写は、そのテイストが大きく異なります。これはおそらく監督である近藤喜文と脚本担当である宮崎駿の持つ「少女」像の乖離が原因でしょう。近藤喜文は郊外都市の中で少女が「跳べる」と思っていますが、おそらく宮崎駿はそう思っていない。虚構に行かないと飛べないと思っている。

 この映画が郊外映画であることを思えば、近藤喜文の描く「少女」像で統一してこの作品を作ってほしかったと私は思うのですが、実際の現場ではそうはならなかったようです。

 さて、この映画で描かれる「男性像」についても触れたいと思います。

 この映画で描かれる最重要男性は雫の父親です。新宿から電車で30分の郊外都市にある団地に妻と娘を居を構え、図書館司書として勤務しています。その自宅には夥しい数の本が並んでいますが、おそらく彼はこの映画が公開された1995年に父親世代だったことから鑑みて、全共闘世代でしょう。間違いなく学生時代に左翼運動に傾倒した過去を持つ人間だと思われます。

  かつて、学生運動で体制や権威に異議申し立てをした彼も、今では保守的な生活を送っています。かつて反体制を掲げた人間が、現代社会に順応し、父として公務員として生きている。その姿はかつての運動時に掲げた主張と矛盾していると批判される向きも少なくありません。

 しかし、この映画にそのニュアンスはありません。彼は雫を寛容な態度で接する父親として、肯定的に描かれています。彼は雫の「挑戦」を許容します。かつて社会に向けて叛意を掲げた彼は、今ではその次の世代の「冒険」を見守る立場になったのです。

 その姿は、この社会の「男性性」の「成熟」の一つの姿を描いたものと言えるでしょう。

 この映画に出てくるもう一つの主要人物、天沢聖司についても触れておきましょう。

 『耳をすませば』は彼と雫とのやり取りからネットで揶揄されることが多い作品ですが、この映画は「郊外映画」「少女マンガ」であり、「恋愛もの」として読む意義はさほどないでしょう。彼はこの物語では雫を「現実(郊外)」と「虚構(骨董品屋)」を繋ぐ、言わば雫を導く蝶番としての機能を持った人間として描かれています。つまり、「少女」が世界を横断し、「跳ぶ」可能性を発揮するための先導者としての役割が与えられているのです。

 そもそも彼の名前は「天沢聖司」です。漢字の一つ一つ取っても、やたら神聖で神々しい文字が与えられています。つまり、彼はほとんど身体を持った人間的な存在として描かれていない、と言ったら言い過ぎでしょうか。とにかく、彼が雫の人間的なパートナーである要素は、一見した物語の印象よりも薄いと捉えるのが自然ではないかと思います。

 以上、映画『耳をすませば』を ”「郊外都市」に生きる”、”近代化された「内面」と「性的な身体」を持つ「少女」の可能性”を描いた作品として述べてきました。

 「少女」は郊外都市の中で「跳ぶ」ことができるのです。つまり、「女の子」は「魔法使い」になれるのです。


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