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マイノリティの声はなぜ小さくなるのか 「意志」をめぐる冒険 『中動態の世界』國分功一郎:著 書評

「能動」と「受動」から溢れるもの

 人々は大抵、その行動を「能動態」と「受動態」の二項で捉える。その違いは、前者が「自分の意志」で行ったもの、後者を「自分の意志」で行ったものではないもの、として捉えるものである。
 
 しかし、時にその「能動/受動」の二項ではどちらにも収まらない類の行動がある。例えば、それはアルコールなどの依存症だ。
 
 自分では絶対に「飲まない」と固く意志を持っても、どうしても飲んでしまう。それは果たして、能動と言えるのか。能動ではないとしたら、それは果たして受動なのか。
 
 そして時に「能動」と「受動」に収まらない人々の行動は、「意志が弱い」などと非難される。その声はこの世界では圧倒的に強く、依存症患者たちは、それらについて反論する言葉を持つことは、相当な困難が伴う。

言語と思考をめぐる冒険 

 我々の思考は言語の構造の関与のもとに成り立っている。言語で思考する以上、そこから逃れることはできない。あるタイプの思考がマジョリティになり、逆にある思考がマイノリティになるのも、その影響下にある。そこに抗おうとしても、マジョリティ/マイノリティの規定が言語の影響を受けている限り、その構造を逆転させることは難しい。

 それでは異なる構造の言語のもとにいるとき、我々の思考の在り方はどう変化するのか。

 この本のタイトルにある「中動態」とは、現在はなくなってしまったが、かつて確かに存在した「態」の一種である。そこで、人々はどのように自分たちの行動や世界を認識していたのか。

 『中動態の世界』への旅、それはその大きな問いへ向かう、長い旅の過程の記録である。

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