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男らしさに欠けてるのがコンプレックスだったけど、この本を読んで楽になった 大塚英志『彼女たちの連合赤軍』

「『耳をすませば』が好きだ」というコンプレックス

 僕は『耳をすませば』という映画が好きだった。ジブリのアニメ作品で、主人公の雫が、恋をしたり小説を書いたりする映画だ。この作品で主人公たちが活き活きとした暮らしが描かれている様が、とても好きだった。

 けれど、この作品は「2ちゃんねる」などの場所で冷笑されていた。雫と恋に落ちる天沢聖司を「ストーカー」と呼んだり、ラストの「結婚しよう」というセリフが格好のネタになったりしていた。

 僕はこの『耳をすませば』という映画を、ベタに素敵なものとして受け取っていた。けれど、「2ちゃん」的な少し斜に構えた物の見方のほうが、「客観的で賢い」んだろうと思ってた。自分みたいな物の捉え方は、素直すぎてちょっと単純なんだろう。そんな風にコンプレックスを抱いていた。

左翼運動から消費社会へ

 そんな中、出会ったのが大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』という本だ。この本は、あさま山荘事件を起こした左翼活動家のグループ、連合赤軍のリーダー格の永田洋子について書かれている。

 彼女は社会に疑問を感じ、社会運動に傾倒していく。当時の左翼的な社会運動は、マルクス主義という難解な理論に基づいた、極めて権威主義的な性格を持った、言わば男性文化的な世界だった。

 彼女のいた連合赤軍は仲間のメンバーをリンチ殺害し、あさま山荘に立て籠もった末に逮捕される。彼女の自己実現プログラムは崩壊してしまうのである。
 
 その後、獄中で永田洋子は消費文化と接することになる。ときは高度経済成長期が過ぎ、日本社会は消費社会へと進んでいった。消費社会は、男性的な「生産」を中心にした文化ではなく、「消費」によって自分を表現するという、女性的な文化だった。消費文化と出会った彼女は、そこで自分を表現する術を獲得していくのである。

大塚英志の「少女」論

 この本以外でも初期の大塚英志の著作は、「少女」と「消費社会」を切り口にして書かれたものが多い。それは「消費」を中心にした「消費社会」が出現したことにより、それまで「大人」と「子ども」しかなかった女性性に、「少女」という存在が登場し始めたというのが、その論の主な主張だ(大塚は「少女マンガ」というジャンルの確立などを例に出して、それを論じている)。

 『耳をすませば』は大塚英志の論に照らせば、ある種の「戦後社会論」として読むことができる。「郊外都市」という戦後に日本各地で発展してきた場所で、「少女」が活き活きと暮らしている。そこで描かれている「郊外都市」と「少女」は、どちらも消費社会(=戦後日本社会)の象徴である。『耳をすませば』は日本戦後社会への、ある種の賛美歌なのだ。

「少女性」の自覚と納得

 普段、男性的な文化は「女性」を劣位のものとして扱うことによって、その「権威」を表現する(フェミニズムの言葉でそれを「ホモソーシャル」と呼ぶ)。『耳をすませば』という「少女性」を描いた映画も、その男性主義的な価値観の元に冷笑されてきた。

 しかし、僕は「少女」的な感性と親和性があるのだろう。そして男性主義的な価値観に、あまり染まっていないのだろう。だから『耳をすませば』の瑞々しい描写を、冷笑することなく素直に受け取ることができたのだ。大塚の著作により、僕は自分の感性をそんな風に受け止め直すことができた。

 僕には物事を冷笑して、自分の権威を示すような男性主義的な部分を持ってない。それならそれで、いいじゃないか。そう自覚し、納得したのである。僕は大塚英志の本を読んで、楽になった。


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