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半過去と半未来の住人たち

誰かが夢や理想を語るとき、それに反対する人は決まって「いや、でも現実的にはさ」と、相手の言葉に耳を傾けることもなく、今を変えようとする行為を拒む。
でも、そこでいう「現実的」というのは、これまでそうであったという過去の話であって、今のことではない。そして、理想を語る人はこれから先の未来について語っているわけだから、両者の話が決して噛み合うわけがない。

今を生きながらも半分過去に生きる人、そして半分未来に生きる人。フランス語の時制のひとつである半過去という言葉を聞くと、なぜかそんなことを想像してしまう。
人は目の前にある現実を見ていながらも、その中に残る過去の思い出の姿を見ていたり、そこに未来への期待、希望を見出す人もいる。
当たり前のことだけど、今は過去と未来の分岐点であるわけだから、そのまま過去を維持するか、そこから遠く離れた未来を作っていくかは、今にすべてがかかっている。

陰惨な事件のニュースなどを目にして、「最近は嫌な事件ばかり。昔はここまでひどいことはしなかった」という言葉を、ある程度上の年齢の人から聞くこともある。
それは一見、昔のままであって欲しいという、古いものへの郷愁のようにも思えるけれど、そこで「昔の方が凶悪犯罪は多かったし、ニュースにならないだけで、今よりひどいことをしていましたよ」と反論することにはあまり意味がないのかもしれない。

「昔は良かった」と言う言葉は、ほとんどの場合、過去への郷愁ではなく、未来がもっと良いものであって欲しいという、未来への希望に過ぎない。
今と過去とを比較して、凶悪犯罪がどれほど増えたかを争点にするなら反論もするだろうけど、たいていはそういう話ではない。
「昔は良かった」と言われれば、「そうですね」と答える。未来に希望を託したいという思いは、何ら反論すべきことではないから。

これは今の政治のあり方、わかりやすいものに飛びついてしまう今の世の中の傾向でもあると思うけど、すべての問題をわかりやすく二分して、どちらが良いかの選択を常に迫られる。
しかし、それを冷静な目で見たとき、本当に問題に対する答えは二つしかないのだろうか、と思うことも多い。

トロッコ問題のような、線路のポイントを切り替えて五人を救うか、一人を救うために五人を犠牲にするのか、その二択しか答えが提示されていない思考実験であっても、実際その場に居合わせれば、そこにある無数の選択肢に葛藤すると思う。
たいていの人なら自分で何かの決断を下すことを恐れ、当事者になることを避けるため、何もせずに逃げ出したり、誰か他の人に助けを求めるかもしれない。
また、トロッコとポイントの切り替え装置について知識を持っている人なら、ポイントをどちらにも切り替えず、中間の位置に据えることでトロッコを脱線させて解決を図るのかもしれない。

本当の答えは二択で単純に選べるものではなく、その二つの間に広がるグラデーションの中に答えは無数にある。
政治や社会の問題では、どちらか一方を選択して、もう片方を切り捨てて解決できることばかりではなく、選ぶべきは、どちらをどれだけ取り入れるかという、そのバランスにあると思う。必要なのはそれぞれの利点を理解して、時代にあった適切なバランスにすること。二択を迫って分断を図っても、メリットがあるのは半分の支持を得られる政治家だけのような気もしてしまう。

どちらか一方を選んで一方を切り捨てる場合であっても、それが最もバランスが悪いことであると認識し、取り返しのつかないことになる恐れがあると承知した上で慎重に舵を取るべきなのだと思う。
無駄の排除、効率化を最優先する世の中で、資源や資金に限りがある以上それは必要なことではあるけれど、人生において無駄は必ずしも必要のないものばかりではない。

たぶん人生の多くは無駄なもの、無駄な行為で成り立っている。
人生に無駄なことなどない、ともいうけれど、それは後から振り返ってそう言えることであって、その行為の時点ではさして意味がないことも多い。その後取られた行動によって、無駄なものにも光があたり、意味が生じていく。
そして、おそらく人は自分の過去が無駄にならないように生きようとしてしまう生き物なのだと思う。
私たちは今を生きているようでも、そうした過去の繋がりの中に生きている。過去の誰かの行為、自分がこれまで選んできた道が、未来への道を決定付けていく。

というと、人の自由意志などまるで存在しないかのようであるけれど、脳科学で有名なリベットの実験結果は、それに近いものを示してもいる。
意識的に手を動かそうと決断をする、その約0.35秒前から脳は無意識的に手を動かす準備を始めているという。自由意志が働くのは、手を動かすことではなく、その手を動かすのをやめるかどうかだけでしかないというもの。

未来はおおむね決まっている。と誇大妄想めいたことを言いたいわけではないんだけど、私たちは劇場のスクリーンの中にいる登場人物みたいなものなんじゃないかと思うこともある。

いつの間にか自分の物語は幕を開けていて、自分の意志に関わらず、見る見るうちにストーリーは展開する。筋書きは決まっていて、どこでクライマックスを迎え、どんな結末を迎えるか、そしていつ幕を閉じるのかまで、大概のことは決まっている。
スクリーンの外に飛び出して自分の物語を眺めることができない以上、そのことを知る術はないけれど。
そこで、私たちにできることといえば、決して観客にはなれないのだから、当然自分の物語の主役を演じることしかできない。どんな苦難にも立ち上がり、弱きを助け、悪をくじく。そして、最後まで自分自身のハッピーエンドを信じて役を演じきる、それだけしかないのだと思う。

映画は撮影されたその瞬間から過去になっていく。鑑賞者が見ているのは、常に過去に記録された映像であるけれど、過去を眺めることで未来への希望を得ることもある。過去を大切に思うことと、より良い未来に希望を抱くことは決して相反するものではないのかもしれない。

映画がこの上ないハッピーエンドであるか、それ以外の望まない結末であるかに関わらず、終わりのときは必ずやってくる。映画が幕を閉じ、エンドクレジットが流れ始めると、席を立つ人の姿も見られるだろう。
それでも、最後まで席を立たずに見てくれる人がひとりでもいるなら、それはそんなに悪い映画ではなかったといえるんじゃないかと思う。

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