切り売りじゃないのよ、書くことは。
むかーしむかし、エッセイというものが怖かった。
わたしが学生の頃ってたぶんSNSの流行りはじめの時代で、まだ多くの人が「ネットはすごい、ネットは怖い」って時代だった気がしてる。
インターネット回線を通じてつながる世界はびっくりするくらいグローバル。お隣さんから地球の裏側に住む人まで、誰とだってコミュニケーションが取れる。
無限の可能性が、本当に「無限」なんだなぁって子どもながらに思っていた。
だけどその反面で「ネットには君を騙そうとする人が山のようにいる」と口を酸っぱくして言われた。誰もが顔の見えない世界で起こる犯罪やトラブルに恐怖し、どこまでなら良いのかを模索する日々。
その間でゆらゆらしていた保守的なわたしには「エッセイ」というものがすごくグレーに見えていた。
エッセイって、つまり自分のことを書くわけでしょ。
そんな、自分を切り売りするようなこと、怖いよ。
広義的な意味はあっちの方へ置いておくとして、わたしにとってエッセイは自分の体験や考え、思いをダイレクトに形にする文章形式だ。
それはときに「個人情報」にたどりつくこともある。それが怖かった。
し、単純に自分をさらけ出すような行為が苦手で、慣れてないから恥ずかしくて、なにかと理由をつけて避けるようにしてたのかも。
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そんな自分が今、こうしてよなよな「エッセイもどき」を書いているのが不思議でおかしくて笑ってしまう。
なんだよ、結局自分のこと話したいんじゃんって。
たぶん世の中の風潮なんだろうけど、今は本当にびっくりするくらいたくさんの人が何かしらのSNSとともに生きている。
昔はあれだけ口をレモンみたいにして危険だと叫んでいた大人たちもSNSをやっていたりする。そのギャップにふふふってなったりして、性格の悪さを自覚するのと一緒に特大のブーメランを食らってる。
あれは、いうなれば「はじめまして」に対する拒否反応だったのかも。
自分のことを書く=個人情報漏洩 なんてもっともらしく結び付けっちゃたりなんかして、やらない理由が欲しかったんだよね。(もちろん本当に書いたらダメなラインもあるけど)
だけどそれって書くことの一側面でしかなくて、その面ばっか見てると何にもできなくなっちゃう。
心のどっかでは自分のことを書きたい、誰かに読んでほしい、つながりたいって思ってるのに、いい感じに気持ちに蓋をする嫌なガキだったなぁ。
今も大差ないけどさ。
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バカとハサミは使いよう、自分もハサミも使いよう。
自分のことを書く=個人情報漏洩 を
自分のことを書く≠個人情報漏洩 にするのは自分なんだ。
切り売り=エッセイ を
切り売り≠エッセイ にするのも自分なんだ。
書くことをファストフード並みに安っぽくしてしまうのも、一見さんお断りの隠れ家的にするのも、あったかい家庭料理にするのも全部自分のお仕事。
うーん、楽しいね、なんて言いながらお酒をちびちびやる夜でした。
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