さよならのあとにくる



有料記事ですが、小説部分は全文お読み頂けます。どうかあなたに届きますように。



***



別に包丁砥ぎでなくてもよかったのだけど、僕の性分にはそれが合っていたらしい。

手の中でてらりと物騒に光るナイフを砥ぎ台の上で前へ後ろへと動かす。その単純明快な動作への没頭と、簡単に指の皮を裂いてしまう切っ先の切れ味を見るときの満足感とが、日々の気にも留めないようなストレスたちを身からそぎ落としてくれた。

幾本もの細い線状の模様がついたステンレス製のナイフは、結婚してから最初の記念日に妻がくれたものだった。婚約するまではそれぞれひとりで暮らしていたから、よなよなキッチンに研磨用のセットを用意してきぃきぃと包丁を研ぐというちょっとした奇行がバレずにいたことに、僕自身も気が付いていなかった。

はじめこそ少々驚かれはしたが、妻は「あなたらしいね」と言って笑い、嬉々として日本橋の有名刃物店を訪ねてくれたらしい。それを知った僕は彼女とお揃いの指輪が自分の左手の薬指にはまっていることに心から感謝して、トマトの皮もするりと一刀両断できるくらいに仕上げておいた。

ちなみに最初の記念日、僕は妻へかねてから飼いたがっていた仔犬を買ってあげた。しかし犬好きの僕にとってそれはご褒美でしかなく、「あなたばっかり得してて、ずるい」と彼女は不貞腐れられてしまった。



その晩も、僕は包丁を研いでいた。妻は30分も前に眠そうに目を擦りながら寝室へ引っ込んでしまった。大抵は僕もそのあとを追うようにしてベッドへ滑り込むのだけど、今日は夕食の準備中に肉に何度も刃を入れる妻の眉間のしわを見ていたらいやに気になってしまって眠れそうにもなかったのだ。

リビングと地続きになったキッチンの明かりだけを煌々とつけ、そのスポットライトの真ん中で僕はしょりしょりと包丁を研ぐ。固いものと固いものとが擦れ合う音は、どちらかが胴を折られるまで終わらない男同士の戦いのように見えた。実際にはナイフの胴が折れたら、僕は妻からのプレゼントとの別れに涙するだろうけれど。

包丁砥ぎは趣味だけど包丁そのものにはそれほど興味がなかった僕に、切れ味という満足を教えたのもやはり妻だった。料理と言えばカップラーメンか麺をゆでて混ぜるだけのパスタだった僕は包丁の切れ味を試す場もなくただ上京当時に買った包丁を擦り減らすだけだったが、妻と結婚してからは角煮用のブロック肉がするする切れることに感動すら覚えると言った彼女の、その嬉しそうな顔を見てから切れ味も意識するようになった。

ある程度研いだ包丁の刃を横にして、その鋭いシルバーの線に沿って指ですうっと撫でる。金属の冷たさが皮膚越しに伝わり、その温度差に身震いがする。そりゃあ泊めてもらった家のおばあさんが真夜中に包丁を研いでいたら恐怖に慄くわけだ、とひとりで妙な納得をしてしまう。そのくらいに人間にはない無機質な温度は人の思考を絡めとり、危険信号を発しながらも目が離せないという不可思議な心理状態を生み出すのだ。

まさに僕もそういった心理状態になっているらしかった。以前ならまったくもって気にも留めなかった包丁そのものから目を離すことができず、妻を揺すり起こしてでもこいつの滑らかな太刀筋をこの目で確かめてみたくて仕方がなかったのだ。しかし一度眠るとテコでも起きない彼女を起こすのははじめから無理とわかっていたし、仮に起こせたとしても瞼をこする妻に「この包丁を使ってくれ」なんていよいよ刃物の世界に魅了されて我を失ったと思われかねない。そんなことで亀裂の入る関係ではないとは思うが、余計なことはしないに限るのが結婚生活というものだと認識している。

僕は包丁を片手にしばし立ち尽くしていたことに気がつき、ステンレス製の置き場に挿し込んでみるがやはり気になって仕方がない。白熱灯の熱い光がまるでその一点だけを焼くように、嫌に輝いて見えるのが自分の目のせいなのか、それともまったく別の何かのせいなのか判断がつかなかった。

しんと静まり返った真夜中の空気の中、料理もろくにしたことのない男がひとりでキッチンを前に突っ立っているのが自分でも滑稽に思える。悩んだところで結局、僕には何もできないのだから大人しく引き下がろうと決めたとき、足元に気配がした。


大きな丸い目が僕を見上げていた。毛むくじゃらの尻尾をひと振りして、愛犬が足元に座っていたのだ。


なんだ、まだ寝てなかったのかと頭を撫でようと包丁を置いたが、はたと脳裏に名案が浮かんできた。そうだ、試しにこいつを捌いてみよう。

僕は慣れた手つきで巻き毛の可愛らしい愛犬を抱き上げ、大人しく僕の手にぶら下がっている毛むくじゃらをまな板の上に乗せた。彼はやはりまあるい目で僕を見つめていて、その目が早く早くと急かしているように感じる。まるで休日の昼下がりに繰り出す散歩の前みたいだった。

だが困ったことに、僕には犬の捌き方の知識がない。妻に聞いてみようかとも思ったが、先ほどその案は却下した自分を思い出してやめにする。困った、困ったけれど前足で僕の手を握るようにして踏んでいる愛犬を見るところ、これ以上待たせるわけにもいかなかった。
僕は意を決して包丁を握り、そのてらてらと物騒な切っ先を真っ直ぐに立てて、



自分の汗が冷たく首筋をくすぐるのがわかった。ばくばくと早鐘を打つ心臓が深呼吸をしても一向に治らない。眠っていたはずなのに目が干からびたみたいに渇いていて、僕は暗闇の中で何度も何度も瞬きをした。

夢だったにしても、なんて悪趣味な。愛するペットに刃を突き立てようだなんて。

僕は妙にはっきりと脳裏に残る夢の残像を、できるだけオブラートに包みながら反芻する。それにしても、むごい。

静けさの音がする部屋、隣には妻が規則的な寝息を立てて眠っている。それにわずかな安心を覚えながらも、僕は薄暗い周りを見渡して愛犬の姿を探した。基本的に我が家はどの室内も犬が出入りできる作りになっていて、彼も眠る時は決まってこの部屋のどこかで丸まっていた。妻が眠る向こう側に置いた犬用のベッド、窓辺に置いた小さなマットレス、そして手を伸ばせば届く僕側のベッドの下。

少し身体を起こせば、すぐに右手が毛むくじゃらに触れる。彼の巻き毛は毛糸を一本一本割いて丸めたような感じがする。目が詰まっていて、暖かくて。



また心臓が早鐘を打ち出す。今度はこめかみから汗が垂れるのがわかったが、拭う前に頬から顎をつたって白いシーツを濡らす。暗くてわからないが、きっと灰色のシミができているだろう。

はっきりと見えなくってもわかる。触れれば、その無機質な体温は皮膚越しに伝わってくる。その気配に全身がしびれて動けなくなる。僕は手を離すこともできず、かといって優しく撫でてやることもできずにただ呆然と彼を見つめた。

昨日の散歩のときの、ゆらめく尻尾と振り返った彼の舌を出した顔が走馬灯のように流れては、また再生を繰り返す。それと同時に脳内にははじめて彼を迎えた日のこと、病気に苦しむ彼を一晩中妻と撫で続けたこと、そしてキッチンに立つ僕や妻の足先を温める何気ない優しさのことを思い出した。

じっと、そこにいる彼のことを焼き付けるように見つめる。最後の瞬間はいつだって唐突に訪れ、そして風のように去っていく。だから僕は今の自分が見つめているその姿を「最後の瞬間」として、鼻の先から尻尾の巻きの終わりまでに繰り返し視線を這わせることしかできなかった。

妻を起こそうと思ったが夢の中と地続きであるみたいに上手く身体が動かなくって、ただ窓の外で鳴く虫の声を聞く。どのくらいの時間が経ったのかはわからないが、そのひと時が永遠にも似た顔をしていて、僕はこの夜が明けないこと願うばかりだった。



今時のペット供養って充実してるんだな、と他人事のように思えたのは彼が亡くなってから1ヶ月も過ぎた頃だった。相変わらず日々は続いているが、めっきり散歩にはいかなくなっていささか太った気がする。そう話すと妻は「わたしも」と言って少し笑っていた。

結局あのあとは身体に鞭を打って妻を起こし、ことの次第を告げると彼女はわんわんと声を上げて泣いた。僕はもうずいぶん泣いていなくて声をあげて涙する術が思い出せなかったけれど、気がつくとシーツが濡れていたからきっと同じくらい泣いていたんだろう。

彼の身体が生まれつき弱いことは、飼いはじめた頃から知っていた。しかしそんなことは僕らにとってどうでもよく、あまり賑やかでない性格のふたりの間でぴょこぴょこと跳ね回る彼の存在がすべてだった。それだけでよかった。

だが「もっとできることがあったのでは」「自分はより良いケアを怠ったのではないか」と思うことがしばしばあった。後の祭りだとわかった上で、彼に届くことのない後悔を重ねる夜もある。自分を責めることが一種の通例のように頭をよぎっては、するりと消えていく。そうすることでしか罪悪感で空いた穴は埋められないのだと知った。



しばらくはしっとりと雨の多い夏が続いたが時が心を癒し、いや、単に絆創膏の貼り方を覚えただけに過ぎないかもしれないけれど、妻との会話にいなくなった愛犬のことが話題に登るようになっていった。

ふと、僕はあの夜に見た夢のことを思い出し、彼女に話した。あの日から僕は一度も包丁に触れていなくて、それを不思議がられていたのも大きい。また彼や妻に対する後ろめたさのような気持ちもあった。

嫌がられるかとも思ったが、気味の悪い話を聞いた妻は神妙な顔をして一度寝室へ引っ込んだかと思うと、またすぐにリビングへ顔を出した。


「ねぇ、あなた、ちょっと来て」


呼ばれて寝室に入ると、薄暗い部屋にPCの明かりだけが煌々とついている。画面に縁取られた光の前に妻が立ち、スポットライトのように彼女の目に四角い映像が流れていく。

彼女に促されて、表示されているサイトを覗き込む。


「わたし、何かで聞いたことがあったの、あなたの夢の話。検索してみたらすぐにピンと来た、昔好きだった夢占いのサイトだって」


夢占い、その日見た夢の暗示や意味を教えてくれるもの。迷信の類を信じない人間には眉唾物だが、僕の服の裾を丸め込むようにして掴む彼女の手から何か暖かなものが伝わってくる。

開かれたページの、選択されたたった数行を読む。「"食べる"や"料理する"行為は一見残酷にも見えますが、それは愛するペットからの愛情表現です。あなたとひとつになりたいくらいに大好きだという想いが、夢となって現れたのでしょう」。

たった数行なのに上手く飲み込めず、最後の句読点に行き着いてはまた最初に戻る。視界がぼやけているような気さえした。その中でただ背中に添えられた妻の手の温もりだけがくっきりと輪郭を持って感じられる。


「そんなことが、あってもいいのかな」


占いなんてものを、ろくに信じたことがなかった。毎朝の今日の運勢に表示されるラッキーアイテムを探したこともなければ、厄年だと言われても響くものはなかった。なのにこんな時ばかり、見えない何かに縋り付いてもいいのだろうか。

あの夢で見た彼のまあるい目に、意味をあとづけしてもいいのだろうか。


「いいに決まってる。だって、あなたのことが1番好きだったじゃない」

「そう、かなあ」

「そうよ、絶対。わたしにプレゼントしてくれたくせに、あなたにばっかり懐くもんだから不貞腐れてたのよ。でもとうのあなたがそんなこともわかってないから、きっと教えに来てくれたのね」


マウスを握る手が震える。骨張った手に落ちる水滴がころころと流れてマウスパッドに吸い取られていった。気がつけば僕は干からびた喉から産声をあげるみたいに泣いていて、彼はもういないはずなのに冷えていたはずの足先がなぜか温かかった。




***




あとがき



ここから先はこの短編を書くに至った経緯、自分の思いを綴っています。ただごく個人的な、少々センシティブな話になるので有料とさせてください。



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