Ne me touchez pas

「ひとの琴線に響くピアノを弾く、と噂のイヴォンヌ・シュレーヌだが、繊細ゆえの気難しさで、満足にインタビューもできない。それなのにカヨコ、キミはどうしてイヴォンヌとの対談インタビューにオーケーを貰ってこられるんだい?」
 全世界的に有名な音楽誌の編集長、オットマーが嘉世子の肩に手を伸ばしながら、実に不思議そうに尋ねてくる。それをさりげなく、小柄な身体を傾けて嘉世子はかわし、にっこりと微笑んだ。
「そうですね……ひとえに、イヴォンヌがこちらからの不躾な申し出を受けてくださるおかげ、としか、わたしには言えませんね」
 では失礼、と嘉世子はオットマーのもとから踵を返し、いそいそとイヴォンヌの滞在しているホテルへと、足早に駆けだした。

 ──イヴォンヌじゃないけれど、大都会はほんとうにひとが多すぎて、意図しなくても距離が取れないのがつらい、と言いたくなるくらい。

 ひとつ息をつき、嘉世子はイヴォンヌが滞在しているホテルから、特別にあつらえてもらった応接室の扉をノックした。
「カヨコ! 来てくれてうれしいわ!」
 ほっとしたように微笑むイヴォンヌの、華奢という言葉が似合いすぎるほどの細い線。上気した白い頬、再会の喜びに満ちた笑顔に、嘉世子はほっとしながらも──握手やハグなどはせず、しずかに、ピアノと相向かいにセットされた応接セットの椅子に腰を下ろした。
「ほんとうにあなただけよ、カヨコ。あなたはちゃんと、わたしの話を聞いてくれるだけじゃなくて……わたしにも、わたしがたいせつにしているものにも、わたしの許可なく不躾に指を伸ばそうとしてこないのは」
「当たり前じゃない! この指で、手で、なんでもいいからひとつ触ってみよう、なんて思いもよらない、そういう人間がいることを、世間はもっと理解すべきなのよ」
 決然とそう告げた嘉世子に、イヴォンヌは深くうなずく。
「そう、わたしは、わたしだけのピアノに触れて、音を紡ぐことで世界に触れようとしている。それだけでいいのに、やれ殻に閉じこもっているだの、臆病だの、って……ほんと、余計なお世話」
 人差し指で、イヴォンヌが己のためだけに特注したピアノの白鍵を押す。彼女とともに旅をするそのピアノの音はやわらかく室内に満ち、嘉世子の心にもきれいな真円の波紋となって広がっていく。
「音楽誌の編集長に、どうしてイヴォンヌと対談ができるのか、って尋ねられたけれど」
「そんなの! めいめいが持つ、軽々に触れられたくないもの。だからこそ守っているものの前に張り巡らせた糸を、勝手にブチブチ破ってずかずか近づいてきて、ベタベタ触ろうとしなければいいだけの話じゃない!」
 青い目を見開き、声を張り上げるイヴォンヌの、まだ少女めいた幼さが残る姿に、嘉世子がほっとしたように笑う。
「そうよね、イヴォンヌ、まさしくその通りだわ。そして、ひとにたやすく軽々に、自分だけでなく身のまわりのものも触られたくないという点で」
「わたしたちは同志、だから、なにひとつ取り繕わない話ができるのよ。そして、そういうひとにはめったにこの世界では会えないから──ほんとうに、貴重な同志」 
 イヴォンヌの声に、嘉世子はうなずいてくちを開く。
 あなたがいるから、わたしはまだこの世界にいられるの。
 おなじ言葉を囁き合うふたりのやわらかな唇を、緑あざやかな街路樹越しの七月の陽光がまぶしく照らし出していた。


                       #文披31題  4.触れる

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