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第一話 蟠桃

 私はその娘を、蟠桃の娘と呼んでいた。
 その娘は、常に良い香りを放っていた。それは甘い蜜を閉じ込めた花のように、実にすばらしい香であった。加えて、娘の頬はいつもほんのかすかに上気していて、美しい淡紅色に色づいているのである。
 並外れた美人というわけではない。しかし、仄かに潤んで見える黒雲母の瞳とふっくらと果実めいた唇はどこか色っぽく。それが、まるで少々形が歪んでいながらも甘く香りの優れた、蟠桃の実のようであったのだった。
 蟠桃の娘と会話をしたのは数える程であった。初めてキャフェーに着た時、給仕をしていたその娘が応対をしてきたのみである。彼女は大正でも有数のキャフェーで働く女給であった。赤紫の矢絣に、濃い紫の袴。きっちりと結った黒髪に、控えめに止まった蝶を思わせるリボン。飾りのついた白い清潔なエプロンをあてがった娘。
「珈琲を頂戴」
 と言うと、娘は口元にえくぼを浮かべ、目をきらきらと輝かせる。その宝石のような輝きを投影した澄んだ声で、
「かしこまりました」
 と返す。そして靴音を立てて去る時、背中に結ばれたエプロンの紐が、跳ねるように踊る。後ろで結った黒い髪に明かりが灯り、蜂蜜のように優しくきらめく。背筋はまっすぐと伸び、その所作は誰よりも丁寧だった。
「ねえ、美奈子さん。あれはきっと、内面の美しさなんだと思うよ。甘い桃に外見が関わらぬように、本当の美しさは外見じゃないんだ」
 そう知った風に、私を担当する編集者は呟いていた。
「あの子はじきに、あなたの小説に出るでしょうね」
「さあどうかしら」
 部屋で缶詰になって小説を仕上げた後の、艶やかな暮れ。年に数度の楽しみは、あっという間に終わっていく。すっかり辺りは暗くなり始め、点灯夫がガス灯に火を灯しているのが、色硝子の窓から見えた。
 外は冷える。窓を北風が吹きつける音が響いていた。


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