「蚊」考
夫が鬼の形相をする時がある。蚊の存在を嗅ぎ取った瞬間にだ。特に、寝床につく前、「クソ、、眠れなくなるじゃないか」とブツブツ言いながら、何としてでも探し出し息の根を止めようとする姿は、必殺仕事人そのもの。
その気持ちは分かる。刺されたら痒いし、近づいてくる「ブッ~~」という音も不快だ。「音」にとても敏感である夫の苦悩は理解できる。
蚊取り線香やマットを使う手もあるが、そうすると「匂い」に敏感な私が耐えられない。それに加え、窓開けっ放しで寝るため(住んでいるところは、夜になると涼しい風が入ってくる)効果が薄まるのである。
蚊に血を提供してみる
殺してなんぼな蚊なのだが、、別にそこまでしなくてもいいのでは?と思うようになった。
蚊といっても、危険を冒しながら人の血を吸うのはメスのみで、それも卵を産むためにだそう。一方、オスは安全な場で甘い花の蜜を優雅に吸っているというではないか。そんなメスの生き様に、同じ女として同情してしまった。
「そんな事情なら」
少しばかりの血を分けてやるぐらい、何てことはない。こんな思いで、吸血のために訪れる蚊を受け入れている。山中でキャンプした時には、大量の蚊にさすが苦労し、振り払うことはしていたが、バチっと叩き殺すことはしなかった。
気をかけないで良くなったのが、一番満足している点だ。
しかし、一般的には、これを危険な行為というんだろう。蚊は、日本脳炎やマラリアなどの病を媒介することで知られている。その点では、蚊は忌むべき存在。
私の行動範囲は、都市。農場も近くにないので、「まあ、大丈夫だろう」という思いから可能な行為であり、海外のどこかジャングルなどの環境であれば、正当防衛するに違いない。
痒みは存在するのか
以前、瞑想教室に通っていたことがある。そこの先生は、自身が信奉しているインドの聖者ラマナ・マハルシのお話をたくさんしてくれた。
そのうち、印象に残った話がある。
聖者として崇められるラマナさんでも、肉体は人間。がんにかかったことがあるそう。手術をすることになったのだが、その際、麻酔することを断ったというのだ。「痛み」という感覚はもちろんあるのだろうが、そんな肉体の感覚や感情をも超越した域に達しているということなんだろう。
悟りを得ると、この世の感覚や感情を超越することができるのか??
ちょっと思い当たるところがあった。
蚊に刺された後の「痒み」。あれも「嫌」の感情が動くため、なおさら不快なのではないか?
「痒み」を肯定的に受け入れると、「嫌」の感情がなくなり不快ではなくなる。そして「痒み」の感覚は、不思議とすぐに引いてしまうのだ。心の持ちようで感覚を調節できるものかと思った。だとすると、、、
果たして「感覚」「感情」は、実在するのか?そんなことを考え始めると、深みにハマってしまう。(笑)
命の重さ
今日もまた、蚊に刺されていても微動だにしない私を見て、夫はちょっと信じられないという顔をしている。そして、天井に止まっている蚊を仕留めるため、バスケ選手顔負けなジャンプ力を発揮する。
そんな夫の姿を眺めながら思うことがある。
彼は、親の代からの敬虔なプロテスタント系クリスチャンである。教会へ通い、奉仕もする。病んでいる人のために祈りを捧げ、献金だって欠かさない。私も以前、夫について教会に通っていたが、無宗教な親のもとで育ったせいか、どうもしっくり来ず今は通っていない。。。
そんな教会における夫の態度と、蚊を仕留める時の鬼の形相のギャップにビックリすることがある。恭しく「アーメン」を唱えるあの顔は、こうも変わるのかと。
私はクリスチャンでもなく、何かの宗教に傾倒もしていない。しかし、聖書の教えをもとに生きる人たちはたくさん見てきた。ここ韓国でのキリスト教信者は25%ほど。4人に1人は聖書保持者ということになる。
何度か手にとった聖書を読みながら、ふと感じることがある。そこにはちょっと選民思想を思わせる雰囲気がある。神の意図するところは、そこではないのだろうが、信者の中には、そういう部分を自分の中に積極的に取り入れる人もいるのではないかと感じる。実際に、そういうニュアンスを含ませながら説教する牧師さんもいる。
だからか、クリスチャンの中には、仏教徒など他の宗教を異様なまでに軽蔑する人もいる(私の義母も;;)。それだけではない。私は、体にハンディキャップを抱える人を差別するような言葉を口にしたクリスチャンも。これらは、悟りの先にあるものなのか?聖書の真の教えなのか?
クリスチャンだから全員がそうだと言ってるわけではない。しかし、宗教の「教え」が、その人の中にどう根付くのか。そこは別問題でカオスな感じがする。
ちなみに、「韓国クリスチャンのあり様」そこらへんについて何気なく風刺しているネットフリックス作品がある。昨年話題になった「イカゲーム」だ。興味のある方には、考えされられる作品だと思う。
「蚊だって1つの命なんだから、そこまでムキになって殺さなくてもいいじゃない」と鬼の形相な夫に言うと、夫は「寝られない」という理由で必ず殺さなければならないと答える。
聖者然と口ずさむ私を「コイツ暑さで頭がやられているな」という眼差しで見つめる夫。まあ、しかし、、嫌われ虫の代表格「G」については、殺すこと厭わない私も同罪者なんだが。(笑)
「人間」は地球にとって「蚊」な存在なのか
「ガイア理論」という考え方がある。
学生時代読んだ景山民夫氏の作品「リバイアサン1999」の中に、この理論の話が出てくる。その概念は、とても新鮮でハッっとさせられたことを思い出す。
何十年も前に読んだからか、物語のあらすじは、全くと言っていいほど覚えていない。題材は、小松左京作「日本沈没」のような、SFパニック系だっと記憶している。お好みジャンルということで手に取ったが、エンターテイメント的にパッとしなかったんだと思う。「面白かった」という印象がない。
だがこの節だけは、40オバちゃんの脳裏にハッキリと残っている。
「地球はひとつの生命体。感覚もあり、また意志もある。」ゆえに、地球は汚染などで不快と感じるとその部分を掻く。それが地震などの天災なのだと。。。
その当時の若い私は、ちょっと怖くなった。
地球汚染による気候変動や天災は、昨今私たちの目に見える形で、その姿を様々なかたちで現している。それらが地球の意志だとしたら、、、「コロナ」もひょっとしたら?なんてことまで、妄想の翼が羽ばたき始めてしまう。
だとすれば、人間は、地球にとって「蚊」みたいな存在なんだろうか。「気持ちが悪いな、痛いな、痒いな」その原因を取り除きたいと必死にもがく地球は、今、蚊を成敗せんとする夫と同じく「鬼の形相」をしているのかもしれない。
「蚊」というテーマで3000字弱書いてしまった私(笑)。やっぱ変^^
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