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微意  Chapter Ⅰ①(連載推理小説)

 幼少の頃、海が怖かった。
 生きる波が、そのさまが怖くて仕方なかった。
 文字の羅列が物語をつくり受精卵が次第に人間(ひと)を形成していく。
 物語の歩は進み最後のページの一文が僕に問う。
 「僕はこの年、月日になにをしなにを考えていたか」と。
 記憶を辿ると波がじらして
 痛みも甘さも音がさらう
 
 そんなことを脳裏に浮かべ点滅が走る
 
 
 街灯がLEDに普及されつつある現代、燈。その程度で犯罪履行率が影響されることなんて情報社会を生きる我々一般市民が知っているということはなんら不思議なことでもなんでもない。闇に並ぶ複数の街燈も、もし孤独を選ぶなら燈が及ぶ限界にも耐えなくてはならない。
 しかし君だったら、その限界にさえもなにかを付与する。それは時に気まぐれで、プラスにもなるしマイナスにもなる。そしてその全てを君はきっと、一色のイロに染めてしまう。
 砂時計の踵を返す。
 冬の夜に一室の窓から拡がる藍色は少し前の黄色やオレンジの街燈が心に暖かくなにかを差し伸べる、そんな感覚が現在ではもうフラットにさえ感じる。
 
 ホールの出入り口は人混みで溢れていた。僕の左斜め前を歩く君、いや、零華は辺りを見渡してはそっちに気をとられている始末だった。零華が行きたいと言っていたオーケストラ団体のチケットをとったから誘ったのに、零華はそっちのけでなにか物想いに耽っては先程からきょろきょろとしている。気の利いたことを言って君を楽ませたい、と思うのはこのコンサートに誘った者として当然のことだろう。しかし君はそんなことお構いなしだった。グローヴで覆われたこの手の平は僕の小さなこころを表しているようだった。
 拳を作っては広げる。
 塵ひとつも落ちていない大理石の床は少しの翡翠色を感じさせる。振り子時計の大きさは人々の迷いも嬉しさもすべてを許容する。ダストボックスの銀製色はシャンデリアのとの屈折でその先を迷う。カフェスペースのウェイターの運ぶグラスの膜がそれを受け止める。腹の虫が立ち上がるのを抑えようと美しいものを視界に入れよう。僕の右壁8ヤード程向こうには今日のコンサート開催を祝して花輪が飾られてあった。協賛している業者の名も共に記されてある。その端にはひとつのサイドテーブルがあり、豪華な花々が恐縮な顔をして存在していた。数種類の花を用いては主役は百合だった。脇役はガーベラでピンクに黄色、オレンジ色を成す。トルコ桔梗はアメジストだった。花言葉は確か…希、
「Hope」
 零華が僕の顔を覗きこんで笑いながら僕にそう言った。
「なにを柊斗先生は不思議そうな顔でわたくしを見ているんですか?先生がなにを考えていたのか何故わたくしに見透かされたのか、不思議なことなど微塵もありませんわ」
 僕が唾を飲み込むのと同時に頷くと零華は続けた。
「そんなの造作もありません。まずわたくしは柊斗先生の左側に居るのに先生は反対の右を見ていることに気付きました。目線の先には花輪が沢山あるけれど、そんなに見惚れる程の美しい色では構成はされていない。それだったらその端にある地味だけれどそれなりに存在感のある花瓶に飾られている花に見惚れている可能性が高い。その中でも一番に目がいくのは面積をとっている百合の花ですがそんな時わたくしは1週間前の先生の言葉を思い出しました。先生はその時夕刊を見ながらわたくしに言ったのです。その新聞にあったある記事です。名バイプレイヤーの俳優さんの特集記事でした。それについて先生は、この人達の存在があるからこそ主役が生きるのだ、と仰っていました。そのことを踏まえると主役の百合ではなく、先生は百合を際立たせている花々に注視しているだろうと推測出来ます。その中でも多種の色で揃えられたガーベラにも目がいきますが、それよりもトルコ桔梗でしょうね」
 何故僕がトルコ桔梗のことを考えていたのか、ということ。
 ホールは相変わらずの人混みでいつ僕らの声が消えてしまってもおかしくはない状況の中答えが脳内で導かれることがないことは予想出来た。それを汲み取ったように零華はくす、と続ける。
「先生の手袋の色、紫色でしょ。手袋のようなピンポイントアイテムは大体無難な色を好むか、自身の好きな差し色を選ぶのですよ。無難な色といったらベージュや黒、グレイ等になりますね。紫色は無難な色とは言い難いでしょう。と、なりましたら好きな色となります。人は本能的に好物なものへと目がいきやすい。それを考えたら必然的にトルコ桔梗に目が奪われているのだな、と。ついでに数日前に先生が好きなドラマの最終回で花言葉を引用していました。先生はそれから何かと花言葉を電子媒体で検索する癖がついていましたね。以上のことを総合すると、トルコ桔梗の花言葉の〈Hope希望〉が挙がるということですよ。どこか誤りはありましたか?」
「いや、誤りなど寸分も見当たらないよ。驚いたな。てっきり零華さんはなにか物想いに耽ってこれからのオーケストラコンサートにも散見してしまったのかと思っていたよ」
「違いますわ、柊斗先生。わたしあんまり外出しないので、沢山のひとに興味深々だったのです。このような紳士淑女が集まるコンサートにどの様なひと達が集まって来ているのか」
「どのようなひとが居たんだい? 」
 零華は宙をみて経緯を辿る。
「例えばあのカップルです。女性の左薬指に跡があるの、わかります? あれは明らかに指輪の跡です。しかもくっきりと残っているので相手の男性と逢う寸前で外したということですね。お相手の男性の年齢は20代前半から中とお若いです。互いに割り切った関係なら女性も指輪を外しはしないですし、男性も気にはしないでしょう。しかし指輪を外している、ということは感情的に想い合っている関係性なのでしょうね。気付いてますか? あの女性のお召し物、とても良い生地を使ってあります。しかし手は荒れている。旦那さまは奥さまに優雅な服を買ってあげられる程の収入を得ているお仕事をされているのでしょう。そしてきっとあの奥さまにはお子さんがいますね。家事の最中にハンドクリームを塗る余裕がないのは子育てで忙しいのでしょう。推測するに子育てでいっぱいになっている奥さまに旦那さまはあまり気にかけていない。その淋しさと育児のストレスも相まってこのようなお若い男性との関係に走った …っと、あんまりこのようなことは口外するべきではないですね。気をつけます」
 パンフレット買ってきますね、と僕から離れて行っては、君はシャボン玉のようだった。
 トルコ桔梗と距離を縮めては僕は心に想う。
 何故僕はトルコ桔梗に想いを馳せなければならなかったのか、その謎は君の興味の範疇にはなかったのだろう。アメジストのグローヴにシャボン玉がひとつ、当然に存在など……しやしない。
 零華と初めて出会ったのは僕が研修医の頃、零華は学生で受け持ち患者だった。ひとを初めて— 美しい、と。想う以上に女性だから、男性だから、ではなかった。こんなに美しい容貌の人間がこの世に存在することを僕は初めて知った。
 零華が行くその先々にはその美麗に人々が、 男性も女性も関係なしに〈人間〉が、振り向く。そのさまにはもう幾分慣れた頃だった。

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