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湯たんぽと、おばあちゃんの記憶


とうとう今年も湯たんぽを入れる時期がやってきた。

寒くて長くて薄暗い東北の冬のはじまりである。
ここ数日の嵐のような風と冷たいみぞれの洗礼に、うわぁ冬ってこうだったよな、とちょっと心身がこたえている。

寝る前、湯たんぽにやかんからお湯を注ぐ。
その光景に私はきまっておばあちゃんを思い出す。

おばあちゃんは2022年が明けてすぐの冬に亡くなっている。

うちの実家は、二世帯住宅のようなつくりになっていて、1階は駐車場と小さな部屋とお風呂、2階がおばあちゃんの居住スペースで、3階が私たち家族の居住スペースとなっている。

お風呂からあがったら、おばあちゃんの部屋を通っておやすみを言って、3階にいくのが、我が家のナイトルーティンである。

おばあちゃんは、やかんが沸かせる式の灯油ストーブをつかっていて、冬は大体いつでもお湯が沸いていた。
お風呂からあがったら、湯たんぽを持っておばあちゃんの部屋に寄って、沸いているやかんのお湯を湯たんぽに入れてもらう。ちょっとおしゃべりしたりしたり、ときにはみかんを食べたりしながら、お湯を入れ終わったらおやすみを言って、私はあったかくなった湯たんぽを抱えて自分の部屋にもどる。冬のささやかな日常である。

いまは自分の家で、お湯が沸かせる式の灯油ストーブで沸かしたやかんのお湯を、自分で湯たんぽに入れている。使っている湯たんぽは、おばあちゃんにお湯を入れてもらっていたそれとおなじものだ。

この湯たんぽに、お湯を入れるたび、ほとんど毎回、おばあちゃんのことを思い出してしまう。
テーブルの上にタオルを敷いて湯たんぽをのせて、そこにやかんのお湯を入れるおばあちゃんの姿が鮮明に脳裏に映し出される。自動的に。


大好きなドラマ、カルテットにこんなセリフがある。

いなくなるのって消えることじゃないですよ。いないってことがずっと続くことです。いなくなる前よりずっと傍にいるんです

(カルテット第2話 巻真紀)


わたしは湯たんぽにお湯をいれるたびに、
おばあちゃんが側にいるってことを感じているのか。


私がくよくよ悩みすぎていると「あんたはちょっと考えすぎだよ、もっと気楽にしたらいいよ」と笑ってくれるおばあちゃん。

最後までスポーツジムに通っていて、自分よりうんと若い友達とたのしくヨガをしたり、ランチをしたりしていた人気者のスーパー80代のおばあちゃん。

私は生まれてからずっとおばあちゃんと一緒に暮らしてきた。就職して5年ほど実家をでたけど、2021年の1月に仕事を辞めて実家へ戻ったので、最後の一年は結構たくさんおばあちゃんと遊べた。

ふたりでドライブして横浜まで映画見に行ったり、埼玉の温泉にも行ったし、熱海に小旅行にも行った。
雨の日にスポーツジムまで車で送迎したり、洗面所でおばあちゃんの髪の毛を染めてあげる時間はなんだかとてもいい時間だった。

2022年のお正月は実家に帰らなかった。今年はみんなで集まりたいとおばあちゃんはこだわっていたらしい。それなのに帰らなくて、最後に会えなかったことを私はずっと後悔している。でもそんなの気にしなくていいよって言ってくれていそうだなとも思う。

私が田舎好きなのも、手仕事が好きなのも、おばあちゃんの味みたいなご飯が好きなのも、うちのおばあちゃんの影響がきっと大きい。おばあちゃんのつくる煮物と、昆布巻きがまた食べたい。今住んでいるところは、栗が拾い放題だって言ったら、喜んで栗剥いて栗ご飯つくってくれそうだな。

「いない」ってことがずっと続いていて、
私の中にい続けてくれているおばあちゃん。

もうすぐ「いない」が始まって2年が経つけど、はじめておばあちゃんのことを書くことができた。なんか書いておきたいと思った。

今日も湯たんぽいれてあったかくして寝ようっと。

おばあちゃん大好き!

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