サイバー空間はミステリを殺す 前編

 サイバー空間はミステリを殺す。ひとたびネットにつながれば世界中の人間の個人情報と行動履歴にアクセスし、瞬時に条件に合う人間を見つけ出すことができる。犯罪の手口や捜査手法は大きく変貌している。森羅万象をカバーするネットの前で、わずかな情報に頼っていた決定論的探偵は死んだ。ハッキング技術やネットワークのことなど枝葉末節だ。カビのはえたミステリに固執した挙げ句に現実離れした謎解きや、小手先の叙述トリック、泥臭い警察小説しか生き延びていない。もうたくさんだ。サイバー空間では、世界中の諜報機関、警察、軍部、軍需企業が血眼になって罠を張り、トリックを作り、互いに謎解きを競っている。作り物のミステリなど足下にも及ばないリアルミステリの世界がそこにある。
 我々の生活はサイバー空間に依存している。一見無関係に見えるものでも切っても切れないつながりがある。その証拠に、実際に起きたサイバーとは無関係の未解決事件を、サイバー空間から解決してみせよう。そこには死んだミステリとは違う、リアルとフィクションの境目のないサイバーミステリの世界が広がっている。
── 『退屈な全能者』サイトより

 『退屈な全能者』というサイトは警察もお手上げの事件を調査し、見事な推理によって真相を暴くことで有名になった。
 警察発表の情報とツイッターやフェイスブック、ブログ、LINE、インスタグラムなどソーシャルネットワークの情報を元に、被害者と関係者の足取りを整理、分析し、犯人像を絞り込んでゆく手法は従来の警察の捜査手法とも推理小説とも異なっており、ネットならではのアプローチとして注目された。なによりもそのサイトが解決した事件の真相のいずれもが、誰も想像しなかったものだったことが熱狂的なファンを増やした。
 ソーシャルネットワークはすでに社会生活になくてはならないものになっている。フェイスブックで仕事関係の知人とつながり、中学校や高校では校内の連絡網にLINEを利用し、リアルの友人よりもツイッターで知り合った友人の方が多い人間は珍しくない。人々がフェイスブックやツイッターにせっせと近況や写真や動画を掲載するおかげで、簡単に実名、学校、職場、住所、人間関係などさまざまなものを割り出せるようになった。諸外国ではソーシャルネットワークの情報を利用して、テロリストの早期発見や犯罪者の捜査を行っている。研究によれば立ち寄り先を三つ特定できれば、本人を特定でき、高い確率で次の行動も予測できるという。グーグルやフェイスブックは監視資本主義の先兵として利用者の行動を思い通りに誘導し、NSA(アメリカ国家安全保障局)はグーグル、フェイスブック、マイクロソフトおよびインターネットプロバイダの利用者の通信を盗聴し、データを閲覧していたことが暴露されている。日頃当たり前のように使っているソーシャルネットワークは、莫大な個人情報の宝庫でもあり、社会を操作する装置となている。
 その情報の海に個人でも簡単にアクセスし、情報を収集、分析することで特定の相手の行動履歴を把握できる。ソーシャルネットワーク上の情報に基づく推理で、未解決犯罪を次々と解決していく『退屈な全能者』は、サイバー時代の安楽椅子探偵と言えるだろう。
 未解決事件の真相が明らかになるのは喜ぶべきことだが、その一方で弊害も顕在化してきた。『退屈な全能者』は真相を明らかにし、犯人を特定しても実名は挙げなかったが、推理の過程や犯人の条件から犯行現場の地元の人々には誰だかわかってしまう。そうなると、いわゆる『祭り』の状態になり、犯人の実名から顔写真、家族構成、学校や勤務先までネット上に晒され、あげくの果ては子供ならいじめ、大人なら停職あるいは退職を勧告されるまでにエスカレートする。
 ネット上で勝手に犯人探しをするような騒ぎは、以前にもあった。お笑い芸人が、殺人犯の共犯者と名指しされ、複数の人々から執拗に非難された。その時は、完全なデマで、警察が二十名近くを検挙、七名を書類送検した。しかし結局だれひとりとして起訴されなかったし、検挙されなかった者もいた。つまりはやったもの勝ちだ。もしこれからも検察が同じように判断するなら、『退屈な全能者』の言うことを鵜呑みにして、真犯人を誹謗中傷しても危険なことはなにもない。好きなだけ安心して叩ける。そういう誤った理解をした者も少なくなかった。
 おかげで、ひとたび『退屈な全能者』で犯人と指摘されたら、「あいつが犯人に違いない」とお祭り騒ぎになる流れが出来た。『退屈な全能者』の推理はネットいじめの免罪符のようになった。『退屈な全能者』のファンサイトが乱立し、公式サイトには寄付を受け付けるコーナーまでできた。
もちろん、一朝一夕に『退屈な全能者』がそこまでの存在になったのではない。影響力を決定づけたのは、2013年12月練馬区で起きた一家惨殺事件だった。

■ケースファイル3 練馬一家殺人事件 『退屈な全能者』サイトより
■■事件の概要

年の瀬も迫ったある日の朝、三十二歳の内山巧(うちやま たくみ)、その妻香織(かおり)、八歳になる息子の希望(のぞみ)が自宅マンションで刺殺されているのが発見された。犯行が行われたのは前日の夕方と推定された。
最初に殺されたのは内山巧で、玄関で事切れていた。全身を何カ所”も刺されていた。次に殺された香織は、玄関から入ってすぐのリビングで見つかった。玄関の異常に気づいて様子を見ようとしたところで、犯人と鉢合わせし、刺された。息子の希望は、リビングの隣の自分の部屋で死んでいた。異常に気づいたものの怖くて動けず、そのまま犯人に刺殺されたのだろうと考えられている。
目撃者はおらず、遺留品はあったものの、その全てがどこでも手に入る量産品であり、犯人につながるものはなかった。悲鳴や物音もあったはずだが、近隣で気づいた者はいなかった。
その後、犯人は着衣を着替え(血まみれの服が現場に残っていた)、堂々と玄関から出て行き、被害者から奪った鍵で施錠した。わざわざ施錠した理由はわかっていないが、発見を少しでも遅らせるためではないかと言われている。指紋は全く残っていなかった。

警察は生前の被害者の交友関係を中心に捜査を行ったが、それらしき人物は全く見つからず、捜査は暗礁に乗り上げた。

■■事件解決へのアプローチ
事件発生から二年近く経っていたが、その残虐な犯行は記憶に新しい。遺留品はあるものの、犯人の特定に至るものはない。動機は不明。目撃者はなし。見事に迷宮入りの様相を呈している。
現場に真相解明に必要な情報がないのは明かだ。私は情報収集の範囲を拡大した。
・事件前後に起きた被害者一家に関係する変化。人間関係、仕事関係、経済的変化など。
友人、親戚、取引先などで生活や業務内容あるいは経済的状況に目立つ変化が認められる者をピックアップする。
・被害者一家の住居に関する事件前後の変化。
住居そのものに関連している可能性もある。その場合は住居そのもの、あるいは隣近所やマンション全体に起きた変化をピックアップする。

ソーシャルネットワークからこれらの現場以外に関する情報を収集し、こうした変化の中で検討に値するものを選び出すこととした。

■■動機
警察の必死の捜査にもかかわらず、犯人はおろか有力な容疑者も見つかっていないことは、犯行につながる動機を見つけられていないことを意味する。なぜなら日本の警察は動機のある者を容疑者あるいは参考人としてまず調べる傾向があるからだ。
被害者一家につながる動機は、警察によって調べ尽くされている可能性が高い。逆に言えば、動機は被害者一家に直接関係ないものである可能性が高い。

■■調査
「事件解決へのアプローチ」に記述した条件に該当する情報は無数に存在し、その確認には時間がかかったが、合理的な説明の難しい奇妙な情報が浮かび出てきた。
被害者一家は事件の翌月に引っ越すことになっていた。これはすでに警察も発表している事実だ。引っ越しと事件の関連については警察も充分調査しただろう。だが、被害者一家が引っ越した後、そこに入居する予定だった人物について、警察はどこまで調べたのか不明だ。おそらくほとんど調べていないに違いない。ソーシャルネットワーク上に、入居予定だった女性の匿名のツイッターアカウントを発見することに成功した。当時のツイートを読むことで、状況がよくわかる。その女性の母親のフェイスブックも見つけることができた。そちらの情報量は限られるが当時の事情が少し書いてあった。
入居予定の家族は、あの事件のおかげで引っ越しを延期し、他の家を探すことにした。同じ町内で似たような広さと家賃の部屋を見つけたが、契約後入居前に放火騒ぎがあって再び引っ越しを延期することになった。奇妙な偶然だ。いや、偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎている。
この一家(仮にX家としよう)は五十代夫婦と三十代無職の娘の三人暮らしで、夫婦は離婚協議中だった。夫が会社の早期退職プログラムで退職した数日後、妻が離婚を切り出し、娘とともに家を出るつもりで引っ越し先の契約も済ませたと話した。寝耳に水の夫は反対したが、妻と娘は強硬でそのままいったん家を出てホテルに宿泊した。家庭内のくわしい事情には立ち入らないが、妻は夫から早期退職する相談を受けた時に娘とともに家を出て離婚することを計画していたらしい。
しかし、引っ越す予定だった部屋が殺人事件の現場となり、延期を余儀なくされ、妻と娘はいったん夫のいる家に帰ることになる。そして、すぐに次の引っ越し先を見つけ、契約したところで、放火騒ぎでやはり延期せざるを得なくなった。
一連の経緯は、娘のツイッターと母親のフェイスブックなどに綴られている。特に娘のツイッターアカウントにはかなり具体的な内容が書かれているので生々しい。殺人事件と放火と立て続けに引っ越しを予定していた先で異変が起きた時の母娘の驚きと不安はかなり大きかった。夫の犯行を疑ったくらいだ。
一方、夫も匿名でツイッターをやっており、そこでは理不尽に離婚を言い出されたことに対する戸惑いと、怒り、悲しみが綴られている。以前は一日に数ツイートしかしていなかったが、離婚騒動以降は百ツイート近くつぶやいている。そして犯行時刻前後のツイートは途絶えている。当時、妻と娘は家を出てホテルに宿泊していたから夫のアリバイを証明できる人間はいない。
あまりにもさまざまなものが符号しすぎる。偶然だろうか? いやそうではない。
離婚に向けて引っ越しを考えていた妻を夫が止めるため、あるいは先延ばしするために凶行にいたったという可能性が考えられる。もしそうなら妻が次の引っ越し先に選んだ部屋が放火に遭うという偶然も必然になる。

■■証拠
残念だが、この事件に関しては物的証拠が見つかっていない。しかし夫が犯人であるとすれば、その自宅あるいは移動線上に凶器などの物的証拠がある可能性は高い。X家は千歳烏山にある。移動には京王線を使ったと考えられる。警察は千歳烏山の一家の自宅周辺までは捜査の手を広げていないだろう。なにしろ被害者との接点は全くないのだから。
警察あるいはこの事件に関心を持つ善良な市民の手によって物的証拠の発見に至ることを祈りたい。

■■結論
犯人は先述の妻と離婚協議中の夫である可能性が高い。彼は妻の引っ越しを阻止するために、最初は殺人、次は放火を行った。事情には斟酌すべき点があるものの、犯行は許しがたい。


 『退屈な全能者』の推理に従って、ファンたちがこれまで捜査していなかった地域を調べると、犯人が残したと思われる被害者宅の鍵が見つかった。警察が検証すると、確かに被害者宅から持ち去られた鍵だった。
── 証拠が出た! 『退屈な全能者』が未解決事件を解決した!
 ファンは熱狂した。その時点で二万人だった『退屈な全能者』のフォロワーは十万人にふくれあがった。犯人の実名と住所、写真がツイッターにあふれ、それはブログやまとめサイトに転載された。犯人宅近くの『退屈な全能者』ファンは、自宅に押しかけ、家の様子を生放送した。良識ある人々と警察などは一連の犯人に対する個人攻撃は誹謗中傷にあたり、罪に問われる可能性があると警告を発したが、まったく効かなかった。
 この騒ぎを週刊誌が取り上げ、続いてテレビ番組でも特集を組むと『退屈な全能者』を知らなかった人々やネットに疎い人々にも、その名前が知れ渡った。
 過熱した世論に押される形で警察は『退屈な全能者』で犯人と指摘された夫を任意で取り調べた。すると、マンションのトランクルームから凶器と思われる包丁が発見されたのだ。夫は自白し、警察は逮捕、起訴した。
 一審の判決は有罪だったが、夫は自白を翻し無実を主張し、控訴した。最終的な結論は出ていないのだが、世論は『退屈な全能者』の推理は間違っていなかったとさらに騒ぎになり、評価は上がり、信頼も厚くなった。
 その一方で、『退屈な全能者』の正体は不明のままだった。さまざまな噂が流れては消えていった。

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