名文を読む
久しぶりに本棚の整理をしたら、書くことに関する本が何冊も出てきた。3〜4年前に書く仕事に憧れて、でも何をしたらいいのかわからずに買い集めていた本。丸谷才一(まるやさいいち)さんの「文章読本」も、その頃に読んで感銘を受けた1冊だ。
この本で特にグッときたのが、「名文を読め」の項目。じんわりと心に残った言葉は、忘れないようにと手帳にメモしてある。
ひとつは、どんなものが名文かを書いてあるところ。
有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。(中略)逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋もれてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。
丸谷才一『文章読本』
名文という言葉からは、つい古典などをイメージしてしまうけれど、丸谷さんは自分が名文と思うものが名文でいいのだと教えてくれた。だからこそ、自分のエネルギーの源泉になるものであるとも。
もうひとつ、名文を読む意味を気づかせてもらった文章がある。
それは、「われわれはそれ(※言葉のこと)を意識の底に蒐集しておき、時に応じて取出しては自在にこれを用ゐることができる」という1文。
改めて読んでみて、はっとした。最近、noteを書きながら自分の語彙があまりに少ないことに失望していたけれど、自分のなかにその言葉がなければ、取り出せないのは当たり前のことだった。
時間を見つけて、自分が好きな作家さん、角田光代さんや西加奈子さんの小説やエッセイといった“名文”を読んだり写経してみよう。そしたら、月並みな言い回しを多用しがちで、手数がなくてありきたりないまの文章から抜け出して、もっと先にいけるだろうか。
名文を読むことに関連して、丸谷さんはこんなふうにも言っていた。
われわれはまつたく新しい言葉を創造することはできないのである。可能なのはただ在来の言葉を組合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。
丸谷才一『文章読本』
文章読本を読むメリットとして、いまの自分が至ってない文章の書き方を学べるのはもちろんあるけれど、自分が文章を書くことの意義や、書くことそのものの奥深さを感じられるのも大きい。
わたしは丸谷さんのこの言葉に、いまの自分がしている「書く」という行為が、これまで続いてきた歴史の延長上にあることに気づかせてもらった。古典文学から現代の作家さんまで、これまで自分が読んできた文章(名文)を継承するように、いまわたしは文章を書いている。
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