「おいしかった」の記憶をつくるもの
久しぶりに外食しておいしいご飯を食べた日、ふと人生で一番おいしかったものって何だろう?と考えてみた。
数分くらい考え込んで思い浮かんだのは、数年前、父と、自分が付き合ってる彼と行ったお蕎麦屋さんで食べた「白子の天ぷら」だった。
これまで白子ポン酢は食べたことあったし大好きなのだけど、天ぷらで食べるのは生まれて初めて。熱々でとろっとしていて、感動するほどおいしかった。自分の中では、今のところこれがナンバーワンだ。
ちなみに続く2番目は、これまた数年前、会社員だった頃に先輩と後輩と行った岐阜旅行でたべた「飛騨牛の焼肉」。どのお肉も筋がなくてやわらかくて、あまりのおいしさにモリモリ食べた。あの日のおいしさを越える焼肉店には、まだ出会えてない。普段あんまり焼肉屋さん行かないのもあるだろうけど。
そうやって思い返してみると、おいしかったはずのごはんや料理そのものの味は、もうすっかりうろ覚えだ。舌触りや味の詳細そっちのけで「おいしかった」のカテゴリに突っ込まれてしまっている。
味以上に記憶に残っているのは、誰とどんな状況でたべたのか。そればっかりだ。
「人生で特別美味しかったものは?」と訊かれたら悩んでしまうけど、「誰とどんな場所で食べたご飯が美味しかった?」と聞かれたら、いくらでも出てくる。
家族で行った金沢旅行でたべたお寿司、好きなひととお腹ペコペコで足を運んだモーニングのカフェラテとパン、大切な人と行った居酒屋さんでたべた焼き鳥。登山に出掛けて、友達とテントで食べたラーメンも。
どうやら自分なりの「おいしい」は、ご飯そのもののおいしさよりも、環境の影響をめちゃくちゃ受けている。そしてそのおいしさは全部、思い出に紐付きすぎている。それはナンバーワンの「白子の天ぷら」にしてもそうだ。
これまでの人生で特別おいしかったものを決めるとしたら、おそらく味基準で選ぶのが正統派。でも、そこをあえて状況基準で探したら、忘れかけていた何気ない「おいしかった」を再発見できる気がする。ただ残念ながらそのおいしさは、あの日あのとき限定なのだけれど。
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