見出し画像

作品に宿る「気配」の話

1年ほど前、YouTubeか何かで椎名林檎さんと西加奈子さんが対談している番組を見た。対談のなかで西さんは、小説について「気配」という言葉を使った。

そして、

小説には見えている文字だけじゃない「気配」というのがあって、それをもらいなが読むもの

という話をされていた。

この「気配」という言葉が、すとんと胸に落ちた。わたしが言いたかったのはその言葉だ、と思った。その対談で西さんが伝えたかった意図とは違う可能性があるので恐縮だけれど……。

西さんの言葉を借りていえば、作品には作り手の「気配」が宿っていると思う。

わたしが思う気配とは、その人の人柄や思想、記憶だったり、その人のセンス、“らしさ”だったりする。

例えば、小説を読んで「作者のあの体験をもとにしてるんだろうな」とか「この台詞は作者のユーモアあってこそなんだろうか」と考えるのも、「この言い回しは、この作者らしいなぁ」と感じるのも、それだ。思想や記憶やその人のセンスを、ふと垣間見せてもらうような気持ち。

作り手の気配は、小説やエッセイに限らず、曲の歌詞、手紙、日記、さらに漫画にも宿る。

ただエッセイはともかくとして、小説や曲の歌詞、漫画はフィクションであることを忘れてはいけない。私小説や体験をもとにした歌詞、漫画もあるけれど、作品はあくまでフィクションだ。

そう頭ではわかっているのだけれど、それでもフィクションのなかに、作り手の気配を探そうとしてしまう自分がいる。

実際に作品が持つ「気配」みたいなものを強く感じたのが、浅野いにおさんの漫画『世界の終わりと夜明け前』の『東京』だった。主人公の漫画家が東京で電車の座席に座っているときの、やるせない悲壮感のある表情。すごく刺さるものがあった。あとがきで、浅野いにおさんが「結局一番描けて満足だったのは、都心の電車で死んだ目をして座っている主人公の姿だったりしました」と書いていた。その描写に意図があったんだと知って、勝手に通じるものを感じて泣きそうになった。おこがましい話なのだけれど。

フィクションから感じ取るものは想像でしかなくて、そこに作り手の何かを見ようなんておこがましいし、悪い癖だなと思う気持ちがずっとある。

それでも、作品を通して作り手の気配に触れられるような、そんな感覚をもらった。作品を受け取って感じること思うことは自由で、いろんな解釈や思い込みができてしまうけれど、だからこそ面白くてよくて、つながれる感じがした。

太宰治が、『春の盗賊』でフィクションについて書いていた。

フィクションを、この国には、いっそうその傾向が強いのではないかと思われるのであるが、どこの国の人でも、昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑びんしょうする悪癖がある。たしかに、これは悪癖である。(中略)フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。(太宰治『春の盗賊』)

長らく、フィクションをフィクションとして愛する気持ちを持てる人は少ないらしい。

物書きの人、表現する人、もの作る人は、フィクションを通してどれほど勘違いされたり、レッテル貼りされてきたのだろう。わたし自身、太宰治をどこか勘違いしている気がしてきて、彼の随筆をいくつも読むようになった。

随筆・エッセイは小説よりも書き手の気配が強くにじみ出る。日記は、それ以上だ。だからわたしは、エッセイや日記みたいな文章が好きなのだと思う。

最近、太宰治の『女生徒』という作品が、太宰ファンだった19歳の女性の日記をもとにしていることを知ってびっくりした。同時に、この作品を好きな理由がわかって納得した。わたしが好きなのは、10代の女の子の気配が色濃く宿る日記寄りのフィクションだった。



スキやコメント、SNSでのシェアうれしいです。ありがとうございます。いただいたサポートは、本、映画、演劇、寄席など自分の好きなものに注ぎ込みます!