尊敬の定義を変えられるか
9.7.(月)
おはようございます。
今日は久しぶりのオフで怪我をしたところを癒すことに専念しようと思います。
公式戦まで1週間を切ったので自分ができることを最大限します。
昨日、対外試合が行われてラフプレーが続き試合が少し荒れていましたが、
状況に問うのではなく問われている
という考えも言葉で言うのは簡単ですが、実践するのはかなり難しいと実感しました。
今日はその対外試合の時に感じたことをアドラー心理学を用いて考えてみました。
今日のテーマは「尊敬の定義を変えらえるのか」です。
勉強になるか勉強にならないかは、その対象の媒体に影響するのではなくその要素に注視するべきである。
これは自分が昨年から気をつけていることである。
もっと簡単に言うと、
自分が尊敬している人が話す言葉だから勉強になるのではなく、話す人が誰であろうと勉強になる要素を吸収しようとするスタンス
なぜこのスタンスが大事かというと、自分が憧れている人の言葉からしか学べないなら、あまりにも成長の機会を逃しすぎているからだ。
これを可能にするためには、自分の根底にある「人への尊敬」の定義を変更しなければならない。
そもそも自分たちが考える尊敬とは何か。
人それぞれ異なるかもしれないがアドラー心理学的にはこう定義する。
尊敬とは人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
つまり自分が憧れる人のみを尊敬するのではなく、自分以外の人のありのままを見て尊敬する。
それが自分を謙虚にさせ、人ではなく要素を捉えやすくして自分の成長の幅を広げると考える。