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〈マルクスの近代社会論〉価値形態論は、貨幣という支配を暴露する

価値形態論は、商品が取る「表現形態」に注目して、商品が貨幣という表現形態に至るまでを扱っている。
注意が必要なのが、価値形態論は貨幣の生成過程を論じていないのである。それは、次章にある交換過程論で論じられている。

それでは、価値形態論では一体何を分析しているかというと商品が貨幣という姿になるまでの「商品が取り得る姿」である。
私の解釈では、価値形態論は、貨幣という姿の商品が生まれてくる歴史的条件を考察する理論ではなく「商品という芸術家が、どのような表現(ポーズ)をするのか?」という、優れて表現論である。(ちなみに、商品の必然的なその表現形態とその論理構成を、マルクスは「商品語」と言っている。)

すると、価値形態論では「商品語」という言語が紹介されていることになる。
ともあれ、ここでは価値形態論を軸にして、マルクスの哲学について考えていこう。

価値形態論では、4つの価値の表現形態を考察する。

① 単純な価値形態

  商品A = 商品B

唐突にマルクスが用意した、この等式が表現するのは極めて特殊な意味が内包している。マルクスからすると、この単純な価値形態こそ、他の複雑な表現形態が基づく基本原理そのものだという。
そのような原理にあたる単純な価値形態が表現しているのは「商品Aは商品Bで自らの価値を表示している」ということである。

???となったに違いない。詳しく見ていこう。
前提として、そもそも、商品は自分で自分の価値を表示することができない。たとえば、りんごという商品をじっと見ていても、マルクスのいう「価値」は、対象化できない。
したがって、商品は、他者にあたる別の商品で自分の価値を表現する必要がある。
こうした商品の論理上の事情から、商品Aは商品Bで自らの価値を表現する。

ところで、この時には、商品Bには「商品Aと交換できる」という直接的交換可能性が付与されている。
しかし、その一方で、商品Aは商品Bと交換できるとは限らない。なぜなら、商品Bは商品Aから直接的交換可能性が与えられていないからだ。(このような非対称的な関係にある商品Aの立場を相対的価値形態、商品Bの立場を等価形態とマルクスは命名している。)

ここで本題にとって重要なのが、相対的価値形態にあたる商品の価値は、等価形態にある商品の「実物そのもの」で表現しているところだ。
つまり、商品Aは自らの「価値」を「商品Bという使用価値そのもの」で表現している。
もっと、抽象化して言ってしまうと……

抽象的な価値は、具体的な使用価値で、自らを表現している。

より暴力的に抽象化すると、抽象性が、具体性で、自らを表現している、 という論理が見えてくる。

ここで一番注目するべきなのは、まるで抽象性(価値)が実体化して、意思が備わる主体的な生き物のように振る舞っているところである。

しかし、これは人間が物神性に囚われていることに起因する幻想である。
そもそも、価値とは、この言葉が持つ神秘的な響きとは裏腹に、実につまらない現実として、社会的分業を支える社会労働が私的労働に分散して、それゆえにこそ「抽象的人間労働の社会的性格」が「労働生産物の単なる属性」として現象したものにすぎない。

価値の正体を暴くべくフタを開けてみると、つまらない生産関係の諸事情に由来する現象にすぎなかった、というわけだ。

しかし、それがどうだろうか。
つまらない実態に反して、人間が物神性に囚われてしまうと、あたかも価値が「主体的な実体」として、使用価値に対して能動的に働きかけているように錯覚してしまう。単なる客体だったものが、私たちの外部に立ちはだってしまう。こうして、壮大で誇大で超感覚的なフィクションが生まれてしまう。
マルクスは言う。

「もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現され方、と言うならば、その関連は不可解になるのである」(Marx, 1977, )


マルクスは、ローマ法やドイツ法を引き合いに物神性を説明している。

まずローマ法、ドイツ法といった具体的な法が共通する属性は「法である」ということだ。
ローマ法、ドイツ法の間には本来的に何の関係もなく赤の他人にすぎない。ただ「法」という属性が両者には共通してあるだけだ。

しかし、物神性が発動すると、抽象的な法が「実体物」として捉えられてしまう。さらに、非常に奇妙なことに「抽象的な法」が、ローマ法やドイツ法という仮の姿で力強く顕現したような錯覚に陥ってしまう。
にわかには考えにくいですが、しかし、このことは実際に現代社会の貨幣現象として起きていることである。

②拡大された価値形態

  商品A = 商品B / 商品C / 商品D / 商品E …

商品Aは、商品Bだけではなく、等価形態にある商品群を拡大して、商品C、商品D、商品E  …  で、自らの価値を表現している。
これらの商品群には直接的交換可能性が与えられているので確実に商品Aと交換できる。
しかし、やはり商品Aはこれらの商品群と取引できるとは限らない。等価形態にある商品群は商品Aに直接的交換可能性を与えていないためだ。
だから、商品Aから直接的交換可能性を与えられていても右辺の商品同士は互いに何の関係もない。お互いにバラバラな状態である。
ただし、「商品Aと交換できる」「商品Aの価値が見える」といった属性が共通している。しかし、単に同じ属性が共通するにすぎない。
先の例示でいうところの、ドイツ法とローマ法は、単に「法である」という属性が共通するだけで、どちらも全く関係のない、単なる具体物であるという話と同じ理屈だ。

③一般的価値形態

商品B / 商品C / 商品D / 商品E …  = 商品A

③は、②の右辺と左辺が逆転した価値表現になる。
ここでは何の変哲もなく「商品B、商品C、商品D、商品E  …  」は「商品A 」で価値を表現している。
ただし、右辺と左辺が、ただ単に逆転していると思いきや、そうではない。
かつて、互いにバラバラだった商品B、商品C、商品Dといった左辺にある商品同士には相互に、ある関係が成り立っている。
それは、共同関係である。あらゆる商品に「共通する尺度ができた」という喜ばしい話ではなく、あらゆる商品が「商品Aと交換できる」という共通の属性が備わったという話でもない。
ここで言われる共同関係とは、あらゆる商品が商品Aを商品世界から追放するという共謀である。

しかし、商品世界から締め出された商品Aはそのまま無力になるのではなく、むしろ対極に、商品Aは自らの具体的な姿を持って、あらゆる商品の価値を表現するという役割を独占する。
いわば、あらゆる商品が、商品Aを「商品の王」として祀りあげるという優れて社会行為的な「共同事業」を行っているのだ。

今や、商品Aは「商品の王」だ。
商品の王の役割は「一般的等価形態」と呼ばれる。一般的価値形態は、自らの具体的な姿を持って、ありとあらゆる商品の抽象的な価値を表す。

さらに、第三の価値表現から導出できる哲学がある。
ここでは、個々の商品がそれぞれ「価値ある実体」として認識されるだけではない。
あらゆる商品に共通する属性にすぎない「価値そのもの」が、この商品世界を裏で支配する、「最頂点の実体」として捉えられてしまうという大変な幻想が起きているとマルクスは指摘する。
つまり、たとえば、ローマ法、ドイツ法、フランス法、オランダ法 … といったあらゆる具体的な法の背後で暗躍する「ある統制的な抽象的な法が存在する」と錯覚してしまう話と全く一緒である。このような抽象的な価値には観念上、ある具体的な姿が与えられる。
一般的価値形態とは、「支配的な理念」なのである。

さて、最終地点にある、第四の価値形態を見ていこう。

④貨幣形態 / 価格形態

商品B / 商品C / 商品D / 商品E …  = 金

ここでは、ついに一般的等価形態である商品Aの位置に「金」が来た。歴史的に多く見られる貨幣形態である。
さらに

商品B / 商品C / 商品D / 商品E …  = 円
iPad Pro(11インチ)    = 140,800円

これは現実的・日常的に、よく見られる価値表現である。価格形態と呼ばれる。

あらゆる商品の価値は現代日本であれば、すべて円という具体的な貨幣や紙幣で表現される。
このような貨幣の姿を見る限り「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値を、共同事業として、この一商品で表現するからこそ、はじめて貨幣になった」という実際の商品関係を純粋に捉えられない。
むしろ、「この一商品が貨幣であるからこそ、あらゆる商品が自分たちの価値を、この商品で表現するようになった」と幻想してしまう。
これが、貨幣の物神性の始まりである。

貨幣に価値がもともと内在するのではなく、あらゆる商品が、一つの商品で、自分を表現するからこそ、この一つの商品は貨幣として現象してしまった。
これが貨幣の実情であるけれども、商品の物神性と同じように、ここでは貨幣もまた「価値の器」と認識される。

しかし、貨幣は商品の王である。貨幣は商品と同じような「価値ある器」を超越した「価値そのもの」の化身として幻想される。
価値という普遍性・抽象性そのものが「実在する」と幻想して、そうした価値の化身こそ、まさに「貨幣」だと錯覚してしまうわけだ。
だから、人は商品ばかりではなく、貨幣を強く強く崇拝してしまうのだ。
単なる紙切れにすぎない諭吉に対して、大いなる夢を抱いてしまう。
どれだけ踏みつけられた汚いしわくちゃの紙切れであっても、それが一万円札であれば、皆は欲しいと思う。
その魔力は「価値の実体性」という幻想に始まり、まさに紙幣が「価値の化身」だと錯覚していることに由来するのだ。
要するに、結論としては、貨幣=価値という巨大な幻想は、究極的には「具体性と抽象性が転倒した関係」から生じるという。

「現実の事態においては、抽象的・普遍的なるものがもっぱら具体的なものの属性と見なされるというのに、それとは反対に具体的・感覚的なものは、もっぱら抽象的・普遍的なものの現象形態と見なされるという、この転倒は価値表現に特有のものであり、同時にこの転倒が、価値表現の理解をこれまでに困難にしているのだ」(Marx, 1977, )

ところで、このテーゼが、ヘーゲル哲学の課題でもあったことは忘れてはならないだろう。

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