イッヒ
自己分析として、自分が昔と比べてどう変わったかをまとめたものです。
長かった学生生活も終わり、とうとう社会人生活が始まりました。 そんな私は春から一人暮らしを初め、バタバタしていた生活がようやく落ち着き始めてきました。 時に、私は大変病弱なため、放っておけば風邪をひき、気を抜けば熱を出し、無理しすぎれば倒れるような虚弱さを誇っています。 一人暮らしを始めると言ったところ、家族友人問わず大層な心配をされてしまいました。 とある友人からは「毎日お泊まり会して人を1人は入れておいてくれ!」と言われる始末。 暮らし始めて3週間ほどになりますが
ホワイトチョコを渡されました。だいたい400gくらいの量でドサッときました。 私はホワイトチョコが好きではないですし、くれた人自身の好物だったりします。そのチョコをくれた理由はシンプルで「これで何か作って下さい!」というお願いをされたからでした。 私はお菓子を作るのが好きですし、前に作ると約束したものを作っていなかったこともあり幾つかのお菓子を作ることにしました。 チョコレートが好きな人はよく見かけるのですが、チョコの中でもホワイトチョコがすごく好きだと言う人とは初めて
そろそろ学生生活も僅かになり、卒業について考えを巡らせることが多くなってきました。 学生生活には満足感があるのですんなり卒業できそうなのですが、私はの前には大きな問題が立ちはだかっています。 それは、「謝恩会」です。 前にも書いた通り、私は自分のゼミの先生が大好きです。そりゃもう好きなので感謝や恩義を返す意味での謝恩会はとても楽しみにしています。ですが、謝恩会は普段着で参加したり、スーツで参加するのは難しいのです。浮いてしまいますからね。ドレスを着るのが一般的ではあるの
ここしばらくはずっと卒論を書いていたのですが、やっとひと段落つきました。 卒論や卒論のための実験などで、ゼミの先生にはたくさんの面でお世話になりました。そこで、お世話になったこと含めてうちの先生の話をしようかなと思います。 そもそもですが、ゼミの先生との出会いは望んだものではありませんでした。志望したゼミは今の先生のゼミではありませんでしたし、今の先生は通っている大学の教員ですらありません。なぜ私が今の先生に指導されているかといいますと、入ったゼミの先生がいなくなってしまっ
そろそろ忘れられたかなあと思っていた今日この頃。なんだかんだ読んで下さる方がいるようで、少し嬉しく感じています。 また書ける言葉がたまりつつあるので、近々書こうと思います。
私には、好きな人がいます。 Nさんと出会ったのは、大学1年の時です。 Nさんとは帰りの電車が途中まで同じです。1年の頃は必修科目が多かったので、よく一緒に帰っていました。その帰り道、本当にたくさんの話をしました。 Nさんの第一印象は、なんだったでしょう。多分、真っ直ぐすぎて変な人だと思ったと思います。今でもその印象はあまり大きくは変わりません。 Nさんには、よく言う言葉があります。 「僕は人間が大好きだ!」 この言葉を、恥ずかしがるでも周りを気にするわけでもなく言
「久しぶりに友達と会ってるの。夜にこっち来れない?」 そんな連絡が届いたのは、私がバイトをしている時でした。 私はこの友人のことをそれはもう大事に思っているのですが、あまり向こうから連絡してこないタイプの友人です。 なので、その連絡があった瞬間テンションが跳ね上がし、用が終わり次第すぐ向かうと連絡を入れました。 その日はたまたま普段よりも早くあがることが出来たので、急いで友人達の元へ向かったのです。 ところで、私が普段住んでいる場所は人が多く居ません。なにぶん住宅街な町で
今現在、とても体調を崩しております。 原因は明確かつ、とても分かりやすいために納得はしているとはいえ、だからと言って改善できるものでもありません。 病気の治療でも、完全に症状が消えるものや対症療法的なものがあるのですが、今行っている治療が「根本治療」のみのため、表に出ている症状があまり抑えられていない部分があると思います。 この病気、結構厄介なものでして、気分がめちゃめちゃ落ち込みます。それはもう落ち込みまして、何をしても気分が上がらない状態が続きます。普段なら楽しいは
悪魔の証明 この言葉を聞いたことがあるでしょうか? この言葉が意味するのは「ある事実・現象が『全くない(なかった)』」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明する」ことを言います。 例えば、「福井に野生の狸がいる」ということを証明したければ、狸を1匹捕まえれば済みます。しかし、「福井に野生の狸はいない」と言おうとした場合、福井県すべてを探していないことを確認しなければなりません。例え福井すべてを見て回ることができたとしても、自分がいなくなったところで現れて
夏ももう終わりになってきた今日この頃。 この時期は服装の調整がとても難しいです。 うっか薄着ででると肌寒いなんてこともあるので気をつけなければいけません。 服装といえば、私は洋服よりも和服の方が好きなところがあります。夏はいつも甚平姿でいますし、浴衣も結構好きです。あと、和服を着ている人を見るのがとても好きです。 私の地元駅では、毎年夏にお祭りがあります。そこに来る浴衣の人々を見ていることが昔から大好きでした。浴衣で歩く女性も男性も、とても綺麗なものだという風に思ってい
私がジェンダーに悩んだきっかけは、人を好きになったことだった。 でも、その好きは恋愛感情だと思っていなかった。その人と一緒にいたかったし、ただ特別な何かでいたかった。その感覚はあるけれど、恋というような情熱的なものはなかったように思う。色々なことを考えたけれど、どう考えても男性として好きという確信が持てなかった。ずっとすれ違っている何かを感じていた。 異性として好きという確信が持てなかった。 「異性として」 この言葉を使われるとすべてわからなくなってしまった。 すご
私の知人には「物語」を生成する力が凄まじい人がいます。 その人は、周囲にいる人の情報の欠片を集めて、ストーリーを作ります。ただ、そこで作り上げられるストーリーは大体の場合頭がおかしいものになります。 友人の一人は、気がついたら「第二次世界大戦から生きていて、殺人にハマっている狂人」になっていますし、ほかの人は「聖杯戦争(feteの世界)で聖杯を売りさばき、暗躍する人の腹心の部下」と言う設定が付与されていたりなど、なんだかよく分からないけどちゃんと設定をしすぎているので笑う
私には好きな人がいます。その人にファンレターを書くという約束をしたので、折角だからここに今すぐの気持ちを書き残しておきたいと思います。 元々先生には、お会いしたことありませんでした。私は、先生の話す言葉を聞いていただけでした。 先生は本を作ることになっていたので、その言葉を文字に起こす仕事をしていたのです。 先生にお会いするまで、私は緊張のあまり吐きそうになっていました。 でも、先生を見た瞬間「やっと会えた」と思いました。吐き気はどこかへ溶けていってしまったようです。
罰が欲しい。痛みが欲しい。慢性的にネガティブ。そして、ひどく退屈。 それが私が休みのたびに感じているものです。 休みが始まってずいぶん日々を過ごしましたが、毎日が過ぎていく毎に上のような感情が増してきています。誰かと遊ぶ一瞬一瞬は確かに楽しいです。ただ、家に帰った途端に空虚な感情に飲まれてしまうのです。 最近では上手く眠ることもできなくなっていました。寝ようと思ってベットに入っても、なんとなく寝付けずにさみしさにも似た感情が涌いてきてしまうのに堪え忍ぶしかありません。私
性別というのはありとあらゆる部分に存在しているものだと思います。 服、食事、仕事等々。男性向けのもの、女性向けのものと分類されているものを多く見かけます。 どちらのものを見ていても面白く興味深いものではありますが、私にはよく理解できないものが多数あります。 例えば、レディースデー。何故女性だけ優遇される日があるのでしょうか?メンズデーの数が多くないのはどうしてでしょうか? 服屋も、女性のものが多くあるのに男性向けが表に出くることはあまりないです。それも不思議に思います。
※【私たちのコレスポンダード】「優しい」と言われる私は へのお返事エッセイです。 優しさは、時に残酷なまでに人を打ちのめします。どうしようもない状況で、自分ではひどいと思う行動をしても「優しい」と言う言葉が帰ってくることもありますね。 そして、自分がなにげなく行った対して意味の無いようなことに「優しい」と言う言葉がつくことだってあります。 そのように、言われる時に想定していないような声掛けで使われることがあるのが「優しい」です。 逆にこちらから優しいと言う言葉を伝える