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母親に向いていないわたしが最も母親に向いていなかった頃の話

(前回の記事↑)

娘が生後3ヶ月を過ぎた。

前回の記事を書いた頃の私は産後鬱真っ只中だった。
今は娘は夜まとまって寝てくれるし、生活リズムもついてきてご機嫌に遊んでいる時間も増え、あの頃より格段に楽になった。
娘を可愛いと、心から思えるようにもなった。
私から娘と触れ合うことも多くなった。

もちろん今でも気持ちが落ちることはある。
けれども、あの頃の思考回路はかなり奇妙なものだったと思うことができるようになった。
初めての新生児育児だからとはいえ、明らかに普通ではない状態になっていた時のことを書いていこうと思う。


・ミルトンを見て転落が始まった

前回の記事でも書いたが、妊娠出産は私ではなく夫が望んだものだった。
それでも妊娠中に住宅展示場に足を運んだら「夫と子どもと一軒家で暮らす生活」に幸せな夢を描くことができた。
出産前の内診の激痛も、その夢を支えに耐えた。
(緊急帝王切開が決まった頃の超激痛のときはそれどころじゃなかったけど)
産後の入院中、「家を建てて生活が落ち着くまで、育休を延ばして育児に専念しよう」とぼんやりと思った。
退院日の朝、「この子に恥じないように生きよう」と強く思った。

そうして10日ぶりぐらいに帰宅した我が家は、夫が色々と準備しておいてくれていた。
ふとキッチンを見た。
ミルトン、ミルトンケース、哺乳瓶、液体ミルク、粉ミルク、調乳ポット。
入院前まで毎日のようにレシピ動画を見てご飯を作っていた場所が無くなっていた。
ミルトンは今までの生活が終わったという象徴だった。
退院初日から、既に雲行きが怪しくなっていた。

・こんな子の相手するのは嫌でしょう?

娘は「よく泣く」というほどではなかったと思うが、一人っ子で親戚の子と遊んだ経験も乏しい私は、娘の泣き声にすぐに苦痛を感じるようになった。
それに加えて、首もグラグラで脚も鳥のように頼りない新生児の命が全て自分に掛かっているプレッシャーも計り知れないものがあった。
「一緒に育休を取って家にいる夫も辛いに違いない」と確信した。
その確信からどんどん私の言動がおかしくなっていった。

・「熱い」への深読み

娘は夏生まれで、灼熱の中で退院して我が家での生活が始まった。
ミルクをあげるときや抱っこするとき、夫は必ず「熱い!」と言って扇風機を回した。
私は娘にそれほど熱さを感じなかったので、夫の「熱い!」は「お世話を代わってくれ」のアピールだと思っていた。
だから「代わるよ」と申し出るのだが「なんで?いいよ」と断られた。
私が洗い物などをしているときに「熱い!」と夫が言ったときは「いま手が離せないんだよ」と内心苛立っていた。

・待ちに待ちまくった2週間検診

2週間検診は私の身体の回復を見るだけだったのと、総合病院で待ち時間が長くなりそうだったことから、夫が家で娘を見ていてくれて私一人で行ってきた。
数日前から楽しみで仕方なかった。
一服するために自販機で買う飲み物は何にしようと思いを巡らせていた。
お洒落をして化粧もガッツリしたし、運転するのも楽しかった。
その時の解放感と、娘がいる家に帰宅したときの絶望感から「夫を休ませなくては」と思った。
(なお、その日の産後鬱質問票の回答内容をもとに行った助産師さんとの面談は「あまりにもやばい精神状態だから保健センターに連絡させてね」という結果だったのは言うまでもない)

・夫はなんで寝ないの?なんで出掛けないの?

私はしきりに夫に「いま寝てきたら」と申し出るようになった。
毎回「そんな急に眠れないよ」と断られた。
夫は昔から「寝不足だから今のうち寝ておこう」という寝方ができず、自分が寝たいときじゃないと眠れなかった。それは私も知っていた。
けれども過酷な新生児育児で慢性的に寝不足なのだから、今なら眠れるに違いないと思い込んでいた。
なんで寝ないの?寝たいはずだよ。寝たいに違いないよ。

次に、しきりに「気分転換に出掛けてきたら」と申し出るようになった。
毎回「特に行きたいところはないよ」と断られた。
私に遠慮しているんだと思って「市役所に行って、娘の医療費助成の手続きをしてきてほしい」と用事を申し出た。
これで夫も心置きなく出掛けられるだろうと思った。
それでも出掛けなかった。
「面倒だなあ」と言われた。
なんで出掛けないの?出掛けたいはずだよ。出掛けたいに違いないよ。

・自分の用事を済ますの申し訳なさすぎ問題

前述の医療費助成の手続きは、結局私が市役所に行って済ませた。
ついでに産後ケアについて話を聞こうと思って担当の課に立ち寄ったところ、丁寧に聞き取りをしてくれた。
色々と話をしたら、「通院休止になっていた心療内科への受診をすぐに再開してください。今日このあと電話して予約を入れたほうがいいぐらいです。」と何度も言われた。

自分ばかり外出の用事ができて申し訳ないなと思った。
心療内科の受診以外にも、帝王切開をしたことによる医療保険の請求手続きのために外出した。
けれど、それらは本当に必要な用事だろうか?
心療内科は行かなければいいだけだし、保険金だって受け取らなければいいだけだ。保険金相当額を私の貯金から下ろして家計に補填すればいい。
不要不急の外出をしている罪悪感がいつも私に付きまとった。
だからこそ「娘の医療費助成の手続きをしに市役所に行く」=「絶対に必要な用事」というカードを夫が受け取らなかったことに混乱した。
なぜこんな解放感溢れる時間を必要としなかったのだろう?

・トイレに行ってごめんなさい

今になって振り返ると魔の3週目というほどのものでもなかったし、私も夫もまだまだ育児に不慣れだったせいも大きいと思うが、娘がよくグズるようになった。

私がトイレに行ったり、秒でシャワーを浴びたりしている間に(もちろんリンスや化粧水は不要不急だから使わない)娘が泣いてしまって夫があやしていたら「ごめん!本当にごめん!」と謝り倒した。
「娘、私がシャワー浴びてるといつも泣くよね」と言ったら、夫は「そうだっけ?」ときょとんとしていた。
こんな苦痛を味わっていてそれに気付かないはずはないのに、なぜとぼけるのか理解できなかった。

・一緒に苦しまないと

アパート暮らしなので娘の泣き声は別室にいても筒抜けだった。
私が寝室で仮眠しているときにリビングで夫が娘を見ていたのだが、娘が泣く度に飛び起きてリビングに駆け付けた。
夫からは「そんなすぐ来られたら逆に気を遣っちゃうよ」と文句を言われた。
なぜ文句を言うの?ひとりでは心細いでしょう?一緒に苦しんでこそ夫婦でしょう?

それを繰り返しているうちに不眠になったので心療内科から睡眠導入剤が処方されたが、一緒に苦しまなきゃならないときに起きられないのが怖くて一度も飲むことができなかった。

夕飯はもっぱらスーパーのお弁当を食べる生活だった。
夫はよく私に「買ってきて」と頼んだ。
なぜ自ら一人で苦しもうとするのか理解できなかった。
私が夕飯を買いに行くより、何も食べずに一緒に苦しむ方がいいんじゃない?
もちろん夫に「買ってきて」と頼んで出掛けさせようとしたこともあるが、夫は頑なに「面倒だからお願いしたい」と出掛けなかった。

・だって、私は帝王切開だから

出産は緊急帝王切開だった。
陣痛の痛みがあまりにも規格外だったので「帝王切開にしましょう」と言われたときは救われた気分になった。
(陣痛の痛みを事前に知ることができる機械が開発されたら、人類は滅びると思う。)
「下から産むよりきっと楽だったんだな」と思ってしまった。
だから「帝王切開で産めたんだから、もっと頑張らないと」と気合いを入れてしまった。

しかし私は曲がりなりにも産褥婦だ。
もし私が「疲れた」と言ったら、夫は自分がどんなに疲れていても「休みな」と私に言うしかなくなってしまう。
夫の逃げ道がなくなってしまうから、弱音も完全に吐けなくなった。

・助けを求めた頃にはもう手遅れだった

そんな生活が続いて体調を崩さないはずもなく、いよいよ夫や様子を見に来てくれていた義母に「眠りたい」「娘の泣き声が気になって休まらない」と溢すようになった。

その頃にはもう、数日単位で娘と離れたいぐらい疲弊していた。
けれども、はっきりとそう言うことはできなかった。
みんなだって「こんな子の相手をするのは嫌だ」と思っているに違いないと思ったからだ。
夫や義母からは「いま寝てきたら」「娘ちゃんが泣いても少しぐらい放っておいて大丈夫よ」という言葉しか返ってこなかった。
ほらやっぱり、私を徹底的に休ませたら娘の相手をしなきゃならなくなるから嫌なんだ。

そうしてどんどん体調が悪くなっていき、勇気を出して夫に「もう建物レベルで違う場所で眠りたい」と言った。
夫は「建物レベルって言っても、どうしようもないじゃない」と耳栓をくれた。
アパートの目と鼻の先にビジネスホテルがあるのだが、そこで私を眠らせたら夜間ひとりで娘の相手をすることになるから「ホテルで寝てきたら」と言わないんだろうなと思った。
耳栓をして別室で寝かせてもらっても、当然のように娘の泣き声は耳栓を突き抜けて聞こえてくるので眠れなかった。

朝、夫に泣きながら「本当に死んでしまいそうだから助けて欲しい」と縋った。
夫は「じゃあ今日、車検に行くのやめるから」と言い、義両親にも「家に来てほしい」と連絡してくれた。
違うんだってば。そんな今日だけ休みたいとかそういう話じゃないんだってば。別室にしばらく居れば治るとかそういう話じゃないんだってば。

翌日38℃の熱を出し、心臓が苦しくなり、意識も朦朧とし、食べ物を何も受け付けられなかった。
夫は私が外に出られなくて気分が塞ぎ込んでいるんだと思ったらしく「コンビニでも行ってきたら」と言った。
「もう入院したい。ワンオペにさせちゃうけど。」
最大限の勇気で言った。
「入院?なんの?」
きょとんとされた。
私がめちゃくちゃな方向に突っ走り続けたせいで、誰にも何も伝えられていなかった。

・待ちに待ちまくりまくった産後ケア

その数日後に1ヶ月検診があった。
私の産後鬱質問票の回答内容を見た助産師さんたちが「結果コピーしといて!」と慌ただしく動いていた。
師長さんが直々に面談をしてくれて、途中から夫を交えての三者面談になった。
「旦那さんに任せて睡眠導入剤を飲んで眠りなさい」と師長さんに言われ、夫もそれに頷いてくれた。

そしてそのさらに数日後に産後ケアがあった。
師長さんや夫はああ言ってくれたけれど、私はやっぱり夫に任せることに申し訳なさがあった。
お金を出してプロにお願いするのが一番気楽だった。

それなのに当日の朝、夫が「ちゃんとしたところなのか。適当な保育をされるんじゃないのか。」とずっと心配していた。
私と娘が帰ってきてからも「世話を1日スキップしただけで生産的じゃなかった。なにか育児の困り事が解決できるほうがよっぽどよかった。」と言っていた。
なぜ嬉しくないのだろう。これなら夫だって気楽に休めると思ったのに。なんで休まってないのだろう。
私はゆっくり温かいご飯が食べられて眠れて幸せだったのに。夫だって家にいる間、ゆっくりできたはずなのに。

・一人ぼっちより寂しかった

夫は娘を溺愛していた。
だからこそ、私の「休みたい」という気持ちを尊重するよりも「娘が産後ケアで適当な保育をされるんじゃないのか」という心配のほうが大きかったのである。
それは親としては当然のことであるけれど、私は私を唯一無二として扱ってくれていた夫がいなくなってしまったことへの寂しさが強かった。

これまでも何度か「寂しい」「二人の時間が欲しい」と訴えていた。
しかし「ひとり増えたのに何が寂しいの?」「そこまで渇望されるほどの気持ちがわからない」「娘が可哀想だ」と言われ、寂しさを訴える前より寂しくなった。

夫が「幸せだなあ」と言う度に不幸のどん底に叩き落とされた。

ある晩突発的に高速に乗り、音楽を爆音で流して歌って泣き叫んだ。
「誰か追突してくれ」と願った。
全て悪い夢だったらよかったのにと思った。
目が覚めたら出勤して同僚と他愛ない話をして笑いながら仕事をし、帰りは運転しながらハンズフリーで夫と電話し、夕飯を適当にスーパーで買って互いにYouTubeを見て寝落ちする生活に戻れればよかったのに。

・いつの間にか夜明けが来ていた

その後、どういう経過を辿って私が回復していったのかはよく覚えていないけれど、概ねこういった要因が組み合わせられたことによるものだったと思う。

・産後ケアに夫も連れていって保育の状況を一緒に見てアドバイスも受け、夫にとっても産後ケアが信頼できる場所になって沢山利用した。
・「理解はできなくとも相手の希望は尊重する」がモットーの夫が、私の育休短縮と自身の育休延長を受け入れてくれた。
・ネントレを取り入れ、夜は「お風呂→ミルク(前回授乳時間に関わらず飲ませ、再度満腹になってもらう)→消灯→場合によってはおしゃぶり・ホワイトノイズ」のルーティンを守ったところ、娘が朝まで寝る習慣がついた。
・赤ちゃんには活動限界時間というものがあることを知ったため、昼間は1時間半~2時間ごとに寝かしつけるようにしたところ、比較的短時間で入眠して30分程度は寝てくれるようになった。
・私自身が毎日「1日分の野菜」や青汁を飲んだり(野菜が嫌いで意識してもつい食べ忘れるので、せめてもの気休め)産後向けサプリを飲んだり、水分を多目に摂ったり(水分不足は鬱や疲労の原因と聞いたので)毎日最低30分はウォーキングしたりする習慣をつけた。
・娘に笑顔が出るようになり、その可愛さに癒されることに加えて娘の様子が理解しやすくなった。

今でも辛さや謎の罪悪感は燻っているが、当時とは比べ物にならないぐらい弱いものになった。

いわゆる「普通の母親」になることはできなかったけれど、娘のために必死で母親になろうとしたことは事実だし、あの過酷な時期をいつの間にか乗り越えていた自分を褒めてもいいかな、と最近は思っている。

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