息を吸って、息を吐く。
最近、「息を吸う音」がいとおしくてたまらない。
単刀直入に言おう。マイブームは人の息を吸う音を聞くことである。
笑いたければ笑え。ドン引きするなら引け。
自分でもそんなツボがあったのかと怖がるくらいにハマっているのだから。
私にとって、一番簡単に「息を吸う音」が聴けるのはYouTubeだと思っている。
好きなアーティストが歌っている動画を少し大きめの音量で、イヤホンをつけてから再生する。静かな部屋であればなお良い。
するとどうだろう。
フレーズとフレーズの合間に、息継ぎという形で息を吸う音がはっきりと聞こえてくるはずだ。
私は繰り返し聴いているうちにどこの息継ぎが一番好きかまで定まってきて、もはやそのアーティストの歌や声が好きなのか、それとも息継ぎが好きなのか分からなくなってきている境地についには達してしまった。
たしかに振り返ってみれば高校時代、合唱や吹奏楽の際に聴こえる、全員が同時に息を吸う音や隣の人の息継ぎの音も私は嫌いではなかった。いや、正直に言えば、かなり好きだった。
しかし、ここまでブームと言えるほどにハマっているのはここ数ヶ月である。
”ここ数ヶ月”というところに鍵がある気がして、これから勝手に(こじつけっぽくなりかねないが)その理由を考えてみようと思っている。
キリスト教の世界観では、神がこの世に初めて人間を作ったとき、神に似せて形作った土の塊に「息を吹き込んだ」と言われている。
日本語においても、「息」が「生きる」に通じているというのは有名な話だ。
ロマンのないことを言えば酸素を出し入れするために呼吸がどうしても必要なわけだが、古今東西、息と生きることは密接な関連をもって捉えられているのだろう。
私が魅力を感じているのはそこではないか。まず、そう思った。
息を吸い、息を吐くという行為に、私は思わず生の証明を探し続けてしまうのだ。
だが、私が好きなのは息を吸う音>>>>>息を吐く音である。
これはなぜなのか、その理由はすぐ思いついた。
人は、生まれたときには泣き叫ぶために息を吸い、死ぬときには最後にふっと息を吐いて逝くという。
おそらくこのイメージが私にはっきりと内在していて、私は息を吸う音の生に対する強い志向性、ベクトルに惹かれてしまうのだと思った。
息を吐く音が孕む淋しさや切なさ、声として発されないが故にそこに存在する「無」と向き合うことは、私にはまだできない。
きっと、私はこれからもっともっと生きたくてたまらないのだろう。
ところで、アーティスト、ミュージシャンの歌のうまさを形容するのに、「口から音源」という言葉が使われることがある。
ここには音源収録ではある程度の編集・修正が可能であることが前提とされていて、ライブや一発撮りといった誤魔化しようのない場面でも「正真正銘歌が上手だ」という意味合いを持つ。
もちろん私にとって、そんなふうに上手に歌える人は羨ましいの一言であるのだが、歌にいくら洒落たアレンジを効かせていても、どうしてもそこに何かが欠けている気がしてしまう。
”その人がそこにいる、生きている”という確証が、私には何もないのだ。
物理的にものすごく距離が遠かったり、画面に映る姿や流れる音声はただの電波が変換されただけだったり。
そして、この確証のなさこそが、”ここ数ヶ月”の私の渇望感を煽ってきた原因であるのではないかと感じるのである。
4月。私の大学生活は、オンラインでスタートした。
他の新入生にも「誰かと仲良くなりたい」という意識は共通してあったからか、オンラインでの交流でそこそこ話の合う友人は作ることができた。
しかし、私には一つ疑問があった。
現にオンラインで共に学び、たまに交流会で話している友人たちが、現実に存在していることを私は確信できなかった。
電波を通した姿や声が本物であるという実感が湧かなかった。
しまいには、高校の同期たちさえ私の妄想が作り出した幻影のような気がしていた。
誰かがたしかにそこに生きていることを、切実に私は知りたかった。
だから、たとえ電波に隔てられていても、誰かの「息を吸う音」を聴くことが私の癒しになった。
人間とは思えないほど歌が上手でパフォーマンスが安定しているアーティストであっても、息継ぎまではなかなか統御できない。人によって息の勢いや呼吸法に違いがあって、時々裏返ってしまったりする。
そこに私は途方もなく魅力を感じ、今日も変態っぽく耳を傾けている。
今だって、マスクに覆われて思うように息を吸えない毎日だ。
比喩的な意味を飛び越えて、ただただ息苦しい。
もし、マスクを投げ捨てて、東京の汚い空気を思いっきり吸い込める日が来るとしたら。
きっとそれは、とてもイイ音を立てるだろう。
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