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しんどさの相対比較はできない。

前書き

最近、つくづく思うことがある。

なぜ、「あなたよりも大変な人がいるのに」という言葉が成立するのか、私には意味がわからないということだ。

このnoteでは、これについて、二つの言葉を取り上げながらじっくり考えてみようと思う。

「あなたよりも辛い思いをしている人がいる。
だから、我慢しなさい。」

まずはこれ。意外とよく聞く言葉だ。

だが、ちょっと立ち止まって論理的に考えてみて欲しい。

我慢したって何か解決するのだろうか。
誰かがしんどさに優先順位をつけて、自分の順番が来たらきちんと解決してくれるわけではない。
我慢していたら、自分のしんどさが周りに全く知られない可能性もあるはずだ。

別に他の人のしんどさを否定するわけではない。
自分だって助けが必要なだけなのに。

この言葉を聞くといつも、私はものすごい暴力性を感じてしまう。

目の前に、海で溺れている人がいたとして。その横で、足に重りをつけられて腕一本で岸壁にぶら下がっている人がいるとする。
あなたは、重りをつけられた人に、「もっと苦しんでいる人がいるのだから。助けてって叫ぶなんて傲慢だ。」そんなことを言えますか。

人間関係が全く作れず孤独に悩む大学生に、「大学に行けているだけで感謝しろ。大学生なんて『勉強』だけしていればいい。このコロナ禍でもっと苦しい人もいるのに。」という言葉を投げかけた人。

飲食・観光・イベント業界の人たちに、「医療従事者なんてもっと大変なのに、自粛しないなんて何考えてるんだ。」と猛烈に怒っていた人、店頭に中傷ビラを貼り付けた人。

そこに助けが来るかどうかの話とは、別の次元の話である。

助けを求めることすら許されないなんて、どうにも気持ちが悪い。
息も絶え絶えの人の口を無理やり塞いで、一体私たちの社会は何をしたがっているのだろう。そう、私は考えてしまうのである。

「私よりもっと辛い人がいるのだから、
ありがたいと思わなきゃ。」

これにも、私は違和感を覚えてしまう。

まず、「私よりもっと辛い人」という曖昧な定義で作り出される人たちは誰なのか、という問題。自分より辛い人、という目線は、「かわいそうな人」という一見無邪気なようでいて差別的な視線にスライドしかねない。

もっと極端なことを言えば、江戸時代に士農工商の下にえた・非人という被差別民が「作られた」のと同じロジックを持つことになる。

その理屈であなたは自分の苦しさを和らげているつもりかもしれないが、それがあなたにとって、そして社会にとって何か解決をもたらすのかといえば、答えは否だろう。むしろ、社会の理不尽を肯定する側にまわってしまう可能性もあるのだ。

他人にも同じことを求めるようになるのは、もっと残酷な結果を生むだろう。

それから、そんな我慢の仕方をしていたら、いつか自分が壊れてしまうという問題もある。

気力も体力もその他もろもろの力も人によって異なるのだから、人と比べて「自分はまだ大丈夫」と信じ込むのは破滅への第一歩である。

こうした我慢の仕方が美徳のように思われていることもあるかとは思う。

自分の幸せや感謝は自分で決めていい。
でも、それが他者との相対比較、特にしんどさの相対比較に基づいているとき、あなたには幸せをもたらさないと、私は考えている。

しんどさはあなただけのもの。

結局、しんどさに相対比較を持ち込むなんて不毛なのだ。

自分をそうやって抑え込んでもいつか壊れてしまうし、他の人に同じ理屈を押し付けることになって自分も周りも苦しいだけだ。
周りにそれを要求することは、前述したとおりなんの根本的解決にもならない。

つらいものは、つらい。助けを求めていい。

そう認めるだけで、逆に楽になれる気がする。

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