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原点回帰。

(3186字)


親が定期的にチョコレートの類を買い置きしてきて、でも自分では食べないというか今食べる人物が私しかいないから私が食べてるんだけど、最近買ってきたのはイチゴ&ショコラ味の「きのこの山&たけのこの里」で、私は圧倒的にたけのこ派なのでたけのこが食べたいのだが、私しか食べる人間がいないので当然半分はきのこを食べることになるわけなんだけど、きのこを食べてるうちにだんだんそれをたけのこだと勘違いするようになって「あれ?今自分が食べてるやつは好きなほうだっけ?じゃないほうだっけ?」と思いながら「ちがうこれはきのこだから私が食べたいほうじゃないやつだ」と認識して初めて自分が好きじゃないほうを食べてることを認識するという、自分はたけのこ派だというアイデンティティを持ってるからたけのこを食べた時に幸福感がより上がってるのであって、きのこをたけのこと錯覚して食べたらばたとえそれがきのこだと思ってきのこを食べた時となんら食感が変わらなくとも「そうそう、これこれ。じゃないほう(たけのこ)はなんか違うのよね」という、自分をたけのこ派だと信じながら本質的にはきのこ派であるという、そういう事態にもなってしまうんだろうなあと思って、自分がたけのこ派なのか、たけのこ派と認識したいだけなのか、そんなことを思いながらきのこを食べていた午前0時よ。


はぁ〜〜〜い前置きは置いたままにしておいて。
ねれないのでnoteを書いている。

寝れないというのはけっこうポジティブなわけだな。
寝れない状態というのは体の底で「起きていたい」と思っている。

なぜ起きていたいと思ってるかというと、寝てるより起きてる状態のほうが今は楽しいと認識しているから。
エンジンが始動しかけてる時ほど眠れない状態になるわけやな。

だからまあ寝れないのはそれはそれで良いとする。なんか寝たいと思うまで起きている。


さてさて、前置きってさ、なんか普通、いきなり本題に入るとびっくりするから、アイスブレイク的というか、何もない状態から本論にスーーッと入っていけるようにするためのものだと思うんだけど、なんか前置き書いてるとむしろそっちが本題みたいになってきちゃって、読者さん達にはとても優しくない設計になってると思う。なんだか申し訳ない、という気持ちにはなる。変えないけど。


私けっこう、アナログ好きなのもあり、今時代の先端を行ってるやつたちにあんまり興味を持てないんだよな。あるはあるんだけど。どの時代でもそうなのか知らんが、利便性と利益を追求するあまり置いていかれるものがあるんだろうか。

Youtubeがテレビに取って代わると言われて久しいけど、テレビはテレビなりにTVerやらなんやらで色々やってるわけでそれはすごいなあと思いつつ、テレビの進化はそういう方向性で良いのかとも思う。

量は減ったとはいえ、デジタルな媒体が増えても紙の本はそう簡単には消えないだろうし、映画館だって映画1本分の料金が1ヶ月動画配信の金額を軽く超えてくるのに、未だに栄えてる。

それは、紙の本とか映画館が、新しいものには無い個性を持っているから。

映画館とかね〜、いくら新作をすぐ観れると言ってもコスパは最悪だよね。わざわざ出向いて上映時間まで暇を持て余して千いくら円とバカ高いキャラメルポップコーンと飲み物とか買ったらね〜安いビジネスホテル一泊泊まれるんじゃないか?

でも行きたいんだよね〜映画館。

コンビニで安いお菓子買って部屋暗くしてでかいモニターとかで見る方が、出かける必要も無いし時間にも縛られないし、安上がりだし、自分の好きな映画なんでも観られてうはうはなはずなのにね〜

でもそういう必要の無い部分が、むしろ好きだったんだな〜というのは、切り取られることで身に沁みて実感した気がする。

リモートワークはそれはそれでいいけど、対面で皆で集まる雰囲気がけっこう好きだったんだな〜とかね。

本も、なんならamazonもよく使いはするけど、本屋さんに出向くまでの電車とか車に乗ってる時間とか、めっちゃある本の中からどれがいいかな〜って歩き回ってる時とかが、むしろ本を買う目的というか、本屋さんに出向く意味だったよね。

そんなこと言ったら、もしかしたら今後VRとかで家にいながら本屋さんに言って本を買うまでのシミュレーションができて、それを行うことで実際にオンラインで本を購入できるサービスが出回るのかなとか思いつつ、それやったらどうなるんかな、やったことないから想像もつかん。

まあだからテレビとかもネットにはない個性、強みがあるんだよな。

実家のテレビがYoutubeとかも見られる仕様になってるから、時々テレビ画面でYoutubeやなんやらを観てるけど、やっぱりテレビでYoutubeを観ると、パソコンでみてた時はあんなにヤイヤイ言ってたのになんか静かな感じがして物足りないなと思ったりする。

そこはやっぱりテレビの盛り上げ方というか、画面にへばりつかせるための凝り、スケールの大きさが伺える。

日本に帰ってきてすぐの時、テレビに飢えてたから自宅隔離中よく観てたんだけど、モニタリングで綾野剛が「テレビでしかできないこと見せてやりましょう!!」的なこと言ってたのは本当に感動したな。

なんやかんや言われたりはするけど、そこにプライドとこだわりを持って生きてる人たちがいるんだなあと思うと、古い新しいとか、将来性があるないとか、そういう基準で職業は選べないなあと思うよね。


こんなことを言ってると、懐古主義とか伝統主義的っぽいけど、割と新しいものは好きで、でもそこで排除されたものたちの中にも自分にとって必要なものはいっぱいあったよね、という、結局、色々なものが好きな人たちがいるわけだから、それぞれに共存していけたらいいね。

てか、テレビからネットで個々の好きなものを見ることでマス崩壊、共通概念が無くなってどうなっちゃうのか、みたいなことも言われてるけど、むしろテレビ全盛期のマスが異常なマスだっただけで、いろんな人がいろんな方向に向かうのは昔からそうだったんじゃないか。

テレビは国内の一体感を生み出したけど、それはそれで危険なこともあって、マスが進んでいく方向に皆が行ってしまうというか、例えば最近のコロナで買いだめ騒動とかがあるけど、そういう、マスが動いた方向にみんなで動いてしまうことで思想とか行動が極端になってしまうこと、でもそれを皆が皆常識として持ってしまうことで疑う人が出てこないこと、マスに隠されたマイノリティがいても無いものとされてしまう可能性が大きいこと、皆で同じ方向に向かうというのは危険なことでもあると思ってる。(極端、というとじゃあどこが中立なのかという話になって、それは存在しないようなものだから難しいけど、でも皆が疑わないとか疑う人を無いものとして排除することはどんな思想であっても危険な気がしている)

日本とか韓国にあるスレンダー(褒め言葉ではない)第一主義とかが未だにはびこっていて、痩せてれば痩せてるほどいいみたいな極端な価値観を植えつけたりしてしまったりして、そういうマスが残した極端な共通認識はこの先崩していかなきゃいけないんだなと思う。

だから特にマスが崩れることに対する不安視はまだしていない。
まあでも他人が自分と違う価値観を持ってるってことを受け入れていく強さは必要かもしれないけど。

そんなわけで、既存のものには既存の良さがあって、新しいものには新しい良さがあって、そんなこんなを今までが良かったとかもっと進んでいかなきゃとかそういうことを今までも繰り返してきただろうし、これからも何度もそういうことの繰り返しをしていくんだと思う。

まあきっとどの国もどの時代も昔に立ち返りつつ進んできたのだなと思う。


とりあえず私は早く映画館に行きたい。




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