選択 (5) "誰かがあなたに馬鹿げたことを求めてきたなら" (7/16 AM5加筆)

選択(1)を書いた頃、私の中に
うまく言葉にできない疑問があった。

自由意思は尊重されて然るべき。
それに選択に正解も不正解もない。

でもその選択が実はその人や他の人を害する
影響があるものだとしたら、そのことを
何らかの形で伝えなくてもいいの?

本当は必要がないのに必要があると
思い込まされているだけだとしたら?


何があってもそれをゆるしやクリーニングの
機会として活かしていく覚悟のようなものが
ある人ならいいかもしれないけれど。

よかれと思ってしたことが逆効果になりうる
ことを、周りにも影響することを
知らないだけかもしれない。

問題視することで問題を実在化させてしまう。
ほんとうの問題は別のところにある。
でもただ見過ごすのは違う気がする。

浮かんでくる思いをクリーニングしながら
ACIM (= A Course In Miracles, 奇跡講座)
の中のある部分がクローズアップされていた。

なんとなく今日、ここに書いておいた方が
いい気がするので書いておくことにする。

「兄弟の誰かがあなたに馬鹿げたことを求めてきたなら、それをしてあげるようにと、私は言ったことがある。しかし、これは当然、兄弟もしくはあなたを傷つけるような馬鹿げたことをしてもいいという意味ではない。なぜなら、ひとりを傷つけることは、もうひとりをも傷つけるからである。馬鹿げた要求が馬鹿げている理由は単に、それらが常に何らかの特別性の要素を含んでいるために、衝突し合うからである。聖霊のみが、馬鹿げた必要も真の必要もどちらも認識している。そして聖霊は、どちらも失わずに両方の必要を満たす方法をあなたに教えるだろう。」

(『奇跡講座』(中央アート出版社)/ACIM T-16.I.6:4-8)


〜Kyoko🇳🇱オランダ在住HSPヒーラー
2021年7月15日アメブロ投稿済記事より。


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