「普通」の呪いを解いたのはTwitterだった

学生時代のわたしは周囲と同じでは自分が埋もれてしまうと思っていたし、アイデンティティのようなものを見つけなければと無意識のうちに何かに追われて生きていたと思う。

社会人になってからは独立意欲があるわけでもないし、周囲と真逆の人生を歩むよりも大きく周囲とベクトルは変わらない「普通」の人生を歩みたいと思うようになっていた。まあ、頭の中では『いやいや「普通」って何なのよ』と分かっているのだけれど。

それでもやっぱり会社の中の社員の1人であるよりも自分が自分として認められたいし、率先してアクションをしたり手を挙げたり、自分の主張はし続けている。本当は「普通」がいいだなんて思っていないのかもしれない。かといって「1番になりたい」ほどの熱はどこにもなくて矛盾を少しだけ抱えながら目の前のことをこなす日々を送ったりしている。

結婚して生活環境ががらっと変わった。
今まで仕事優先でいても家のことすべてを家族がやってくれる生活だったものだから、それはそれは大きな変化だった。物理的な変化もそうだが、精神的にも仕事ばかりでいるよりも2人の時間を大事にしようと思うようになった。それは私の想像する家族としての「普通」は生活を大事にすることだったからだ。

その1つの形態が今で、過去にないほど落ち着いた生活をしている。外出自粛もあり、仕事もリモートだしデートのために外に出ていたものが家や散歩程度の距離で済むようになった。


これまで刺激になっていたものが取り除かれて、自分にとって無刺激なまあるいものばかりが周りにある状態。求めていたはずの「普通」の生活に近づけば近づくにつれて、不安になってきた。刺激のない穏やかだけの「普通」になるのがとても怖いし、なんてつまらない人間なんだろうと思うことも増えた。衝動に駆られるような興奮みたいな楽しさはどこにいったのだろうか。わたしの中から消えてしまったのだろうか。

ひとり暮らしだったらきっとよろしくない感情なのだろうなと思うし、今の環境で良かったかもしれない。明るく元気でよく笑うが取り柄みたいなのは外面だけで、本当はわたしは結構根暗なのだ。アスパラベーコン女子みたいな感じ。


そんな不安と矛盾を抱えていた今日、いつものようにTwitterを眺めていたら「情報発信をするには、インプットが必要(意訳)」という文字が目に入ってきた。考えてみたら当たり前なのにすっかり忘れていた。そうなのだ、わたしが目指していた「普通」にはインプットが圧倒的に足りていなかった。

結婚式はどうする、料理はどうするとかの情報のインプットは日常になったけれど、前までしていた自分のためだけのインプットはほぼ皆無になっていた。ありがとうTwitter、いつだって近くにいて大事なことに気づかせてくれるのはTwitterだ。

そもそも「普通」なんてないのだし、自分のためのやりたいことをきちんとやっていたら「普通」に悩まされること自体がなくなる気がしている。大事なこと、大事にしていこう。これもまたご自愛。

あいかりん

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