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僕はもう銀杏BOYZを聴かない。

 もう僕の人生に銀杏BOYZは必要なくなってしまった。

 高校生の時、映画雑誌を読んでいると出てきた「銀杏BOYZ」
 確か映画「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の特集をしていたんだと思う

 ミュージックステーションでも、うたばんでも、紅白でも見たことがない彼らに、僕はなぜか惹かれてしまった。バンドの見た目とか、「あの娘に1ミリでもちょっかいかけたら殺す」みたいな曲名とか。なんとも言えないけれど、「あ、僕のためのバンドだ」と思い込んでしまった
 「DOOR」と「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」の2枚のアルバムを購入し、何周も何周も聞いた。毎日毎日、iTunesが擦り切れるほど聞いていた。

眠れない夜を優しく包む恋のメロディ 抱きしめて今夜だけこのままでいて あの娘はどこかの誰かと援助交際

- 援助交際
君に彼氏がいたら悲しいけど 君が好きだというそれだけで僕は幸せなんだ

- 夢で逢えたら
僕が好きだったアイドルが週刊誌に熱愛報道されていた ショックのあまりに気が遠くなったけど あの人が幸せならそれでいいもんな

- なんとなく僕たちは大人になるんだ

 こんなどうしようもない童貞っぽい歌詞を何度も何度も聞いていた。部屋から聞こえる歌詞のおぞましさに対して母親はどんな気持ちだったのだろう。今思うとゾッとする。
 男子校に通っていて、女子との接点のない僕には、銀杏BOYZの歌の世界だけしか女子を知らなかった。好きな娘が援助交際をしているとか、あるあるなのかなと思っていた。ほとんど間違っているとはいえ、この世界の「リアル」を教えてくれる先生であり、同志が銀杏BOYZだった。

 銀杏BOYZの歌の中で、取り分けて好きな歌がある。「人間」という曲だ

君が泣いている夢を見たよ 僕は何にもしてあげられず 僕は何にもしてあげられず

 この闇のような暗い曲が一番好きだった
 映画や歌になるような不幸を抱えていない、という不幸を抱える僕にとって、その闇の暗さは魅力的だった。
 「夢」というなんだってできる空間。
 そこで、「君」が泣いていても何もできないこの無力感と絶望。
お金がないから何もできないのではなく、体力がないから何もできないのでもなく、時間がないから何もできないのではない。「何をしてあげたらいいか分からないから」何もできないのだ。
 この歌詞を書いた人間は、思慮が浅い。
 その浅さと無力感に、自分は恥ずかしいほど共感をしていた。

 この歌の他の歌詞を取り上げると、

戦争反対 戦争反対 戦争反対 戦争反対 とりあえず 戦争反対って 言ってりゃいいんだろ

 無力感を抱えた人間は、戦争反対と叫びだす。
 何もできない自分を棚に上げるように「戦争反対って言ってりゃいいんだろ」と吐き捨てる。どうしようもなく、浅く、無力で、不器用な表現。それが銀杏BOYZの魅力だった。
 それは高校時代の僕に、共感という生き場所を提供してくれていた。

 僕は銀杏BOYZを聞かなくなった。
 僕の生活に、僕の人生に、銀杏BOYZは必要なくなってしまった。

 好きな娘がいても、SKOOL KILLみたいにストーカーまがいの事はせず、ちゃんとデートに誘える大人になった。時々嫉妬もしてしまうけれど、「あの娘に1ミリでちょっかいかけたら殺す」なんて暴言は吐かない大人になった。

 彼女もいるし、好きな仕事もやっている、趣味もある。

 銀杏BOYZの歌詞に共感していたころより、思慮が深く、力を持った、器用な大人になってしまった。そうなることの方が、生きやすかった。
 今の僕が「銀杏BOYZっていいよね」なんて言っていると、高校時代の僕に「お前に何が分かんだよっ」と吐き捨てられてしまいそうな気がする。

 銀杏BOYZ自体も変わった。
 バンドは、ボーカルの峯田和伸のみになり、他のメンバーは脱退した。
 そして、峯田は朝ドラに俳優として出演したり、去年は日テレのドラマで石原さとみの恋人役をこなし、芸の幅を広げている。

 コンテンツには、コンテンツそのものと共に、それを作り出している人が持つ説得力が重要だと思う。特に銀杏BOYZのような存在には重要だ。
 今の峯田から、僕の好きだったあの歌を歌う説得力は出せないだろう。失礼だけど、そう思っている。また、その説得力を共感して咀嚼するような資格は僕にはないのだろう。

 人生のそういう時期、思春期ともいうべき「そういう時期」に、寄り添ってくれた音楽を忘れて大人になっていくのかな…。

今日はここまで考えました。

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