ヨセテハカエス【掌編】
この港町から、いつか出ていきたいと思っていた。
海も、風も、人も。
何もかも優しく、あったかい。
私はいつの頃からか急き立てられるように、ここから離れなきゃ、どこか遠くへ行かなきゃ、と思うようになっていた。
それは願いであり、祈りでもあった。
だけど、いざ離れることが決まっても、感じると思っていた喜びはいつまで経ってもやってこなかった。
大学受験の冬を越えて、やっとの思いで合格をつかみ、三月を迎えた。
この寂れた港町から、東京へと移り住む。
念願だった一人暮らし。
あとはもう、引越しを済ませるだけだ。
大学に入れば、新しい友達と遊んだり、サークルに入ったり、アルバイトをしたり、いろんなことをして毎日を過ごすのだろう。
不安もあるけれど、やっぱり楽しさを期待してしまう。
家族の目を気にすることなく夜ふかしできるし、部屋で一日中動画を観たり、小説や漫画を読んだり、思いのままだ。
ざあッ、と波が舞う。
もう何度聴いたかわからない、海の声。
しばらく聴くことはないと思うと、胸の辺りがもやっとした。
――しばらく?
ずっと、ではなく?
私は心のどこかで、いつかはこの港町に戻ってくることを願っているのだろうか。
海の向こうには、連なった山々が霞んで見える。
この町で生まれてから何度眺めた光景だろう。
じん、と脚先が不意に疼いた。
冷たい潮風は、靴もソックスも脱いで裸足になった私から、体温を奪っていく。
すう、と息を吸い込むと、身体の内側に冷たい空気が満たされていく。
このまま海と、風と、同化してしまうんじゃないかと思った。
思ってしまった。
――怖いのだ、きっと。
この町を離れて東京へ行ってしまうと、私がもう私ではなくなるんじゃないかって。
この町の自然を忘れて、この町の人たちを忘れて、何もかも記憶がなくなって。
都会の色に、香りに、染まっていくんじゃないかって。
むずむずと、ざわざわと、何かが私の中を駆け巡る。
でも、優しさに包まれたこの港町に留まって、海や風を感じながら時間を重ねていくことも、それはそれで怖い。
得体の知れない不安と焦燥感が私のどこかにいつも居座っているようで、気が逸ってしまう。
――どうすれば。
波の舞う音、風の歌う音が耳に入る。
答えなんて、きっと出ない。
東京に行っても、この町に留まっても。
誰も正解なんてわからないし、そんなものが本当にこの世界にあるとも思えない。
たしかに言えることは、私は今、ここにいるということ。
その《ここ》が変わることだってあるし、どこになるのかなんてわからない。
私はいつだって《ここ》にいる。
私は。
(了)
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