なぜ算数を学ぶのか

「なぜ勉強するのか」に対する、現時点での私なりの回答|かどた (note.com)
を、もう少し解像度を高くしたバージョンの記事です。
国語、算数、理科、社会、外国語など基礎的な科目のうち、もっとも最初に自分なりの回答を繰り出せる対象として「算数」を選びました。


問:なぜ子どもたちは算数を学ぶのか
答:算数を知らないと数字を使って騙されるため

です。
簡潔に答えると上記のようになりますが、これをもう少し細かく見ていきたいと思います。
記事をご覧のみなさんも、一緒に考えていただければと思います。


前提条件として。
子どもたちはやがて大人になります。
大人になると、現代社会では「社会で働く」ということをほぼ強要されます。望むと、望まざるとに関わらず。
超富裕層のご家庭でしたら一生働かなくても生きていける、ということもあると思いますが、そうしたケースの子どもたちは極めて稀だと思うので、ここでは省きます。

働く、の部分を「起業」「経営者」「労働者」と読み替えていただいても構いません。いずれにせよ、現代のこの国では20歳前後から社会に出て社会と関わりを持ち、なんらかの価値提供を行う対価としてお金をいただきます。
そのお金をもととして、生活に必要な食糧・水を購入し、家賃や電気代や水道代を支払い、スマホなどの物品を購入することで、2024年の日本国の便利で快適な生活を享受できます。

お金がないとどうなるか。

シンプルです。

この現代的な生活ができなくなる。

なので、お金は当たり前に生きる上での必需品。

ただし、「お金が山ほどある=幸せ」ではないことには注意が必要です。
幸せの定義はそれぞれで異なると思うので今回は省きます。

前置きが長くなりました。

「算数を知らない=算数をつかって騙される」

の部分にフォーカスを当てていきます。

「数字の大小と計算方法を理解すること」

算数の定義を上記の通りと仮定して。

これを理解していないとどうなるか。
具体例を考えていきたいと思います。

20歳になったあなたは会社に入りました。
しかし上記の通り、数字の大小と計算方法は理解していません。

さて、そんなあなたに先輩社員から話しかけてくれました。
先輩「ようこそ〇〇社へ! ここの給料はいいぞ。同業他社より毎月10万円は高いといわれているからな!」
あなた「へえ、そうなんですね」
先輩「リアクションが薄いな~。10万円だぞ、10万円。これはでかいぜ!」
あなた「へぇ~……」

数字の大小を理解していないので、10万円と言われてもピンときません。
で。
そんなあなたに、とある取引が持ち掛けられたとします。

相手「こんちには! 今日はとってもお勧めの商品を持ってきましたよ!」
あなた「へえ、どういったものでしょうか?」
相手「スマートフォンの最新型です! お値段なんと1万ドル! 普通に買ったら10万円ですけど、今だけ! あなたに特別に! 1万ドルでお売りします!」
あなた「へぇ! 1万も違うんですね」
相手「そうです。今だけですよ。限定1台限りです!」
あなた「よし、じゃあ買います!」


んなわけあるかーーーい!

というツッコミは大歓迎です。
まあこんな事は起こりえませんよね。
どう考えてもあり得ないです。

なので、訊きます。

なぜ、これを読んでいるあなたは、これがあり得ないと思ったんですか?


そうです。数字の大小を知っているからですね。
ついでに言うと、ドルと円を換算する計算方法も理解しているからですよね。

さらに一歩進んで考えます。

今の日本ではこれはあり得ません。
理由は、学校で「算数」を学ぶからです。
もうちょっと言うなら、「学校で算数を学べる環境にあなたが居て」「あなた(と保護者)がその権利を行使したから」ですよね。

別の国ではこれが当たり前ではなくなります。

テレビか何かで見たことがあるかもしれません。
高く積まれたゴミの山に裸足で這い上がり、ゴミの中から売れるものを拾ってきて、それを買い取ってくれる業者のところへ持っていく6歳ぐらいの子どもの姿。

あれをイメージしてください。

道理の是非はさておき。
あの状態……物心ついたときからゴミ山で生活し、学校に行くこともなく、同級生と遊ぶこともしらず、その状態のまま20歳になった子どもの姿を。

子どもは、ゴミ山から拾ってきた金属部品を1ドルに引き換えることができるとは知っています。1ドルが紙幣であり、その大きさが大体自分の手のひらサイズだということも知っています。
しかし20歳になるまで1ドル以外の紙幣を見たことがなく、それ以外の100ドル紙幣があることや、その他にも国によって円があったり、バーツがあったり、人民元があったりすることを知りません。

さて、そんな子どもに、あるとき買取業者の男がこう持ち掛けます。

「やあ、今日もいい部品を持ってきてくれたね。君はいつも頑張ってくれているし、今日はいつもよりちょっといいものと交換してあげよう」

そう言って男は、ピカピカに光る五円玉を差し出しました。

「どうだい、とても綺麗な宝石だろう。太陽の下で見てみるともっと美しく輝くんだ。たまたま昨日知り合った外国人から記念としてもらったものなんだ。これを交換所に持っていくと、1ドルが両手では持ちきれないくらいたくさん貰えるらしいよ。はい、どうぞ」

男は五円玉を渡します。
子どもは戸惑います。
だって、それが何であるか分からないから。
1~10までの数字を見たことはあっても、「五」なんていう文字を見たことがなかったから。
それが1ドル紙幣と同じお金と呼ばれるものであるかどうかさえ、判断できないから。

「あれ、いらないのかい。でもそれだと、今日の報酬は支払えないよ。1ドル札は持ってきてないからね。・・・・・・・・・・・・。え、いらない? いいのかい? それじゃあ、明日から君との取引は止めるしかないな。君以外にも、部品を持ってきてくれる人はいるんだし。俺は別に困らない。・・・・・・どうする?」

男は平然と言います。
子どもは仕方なく五円玉を受け取ります。
だって、それがないと今日の報酬がなくなってしまうから。
今日の報酬がなくなってしまったら、家でお腹をすかせている病弱な妹にパンを買ってあげられないから。

「じゃあ、確かに渡したよ。お疲れさん。またな」

男はそう言って立ち去ります。
子どもは五円玉だけを持って、立ち尽くしました。
仕方ない。受け取らないと、明日からの仕事がなくなってしまうから。
仕方ない。

とにかく交換所に行けば、1ドルが両手では持ちきれないくらいたくさん貰えるらしいから。そのたくさんの1ドルで、妹にたくさんのパンを買おう。両手に持ちきれないくらいの1ドルだから、きっと両手に持ちきれないくらいたくさんのパンが買えるんだろう。そうに違いない。
きっと妹も喜んでくれる。
もしかしたらやっと病院に連れていけるかもしれない。
だって、1ドルが両手に持ちきれないくらいになるんだから。
このピカピカに光る金色の丸いものが、持ちきれないくらいたくさんの1ドルになるんだから。

子どもは五円玉を握りしめて、交換所へ足を進めた。


・・・・・・。

あり得るかどうかは別にして。

「数字を知らない」
「計算方法も分からない」
「そもそも対象がどういう存在かを理解していないし、どこで学べるかも分からない」

というのはこういう事だと考えます。

数字の大小を知っている私たち日本人は違います。
取引を持ち掛けた男に対して「ふざけんなよ」と思えるくらいには、知識という前提を共有しています。

それは、学校で、算数を、誰かが教えてくれたから。

おはじきを使って、1よりも5が大きいことを学んだから。

5が五と表記されることも知っているから。

1ドルが2024年7月1日18時46分の時点で161.04円の価値があることを自分で調べることができるから。

この話に対して「こんなことあるかいな!」とNoを突き付けることができるんです。


・・・・・・。

かなり極端な例と、ドル円のお話を混ぜたり、ちょっと算数だけとは言えないお話になってしまいましたが、「知らない」「理解していない」「調べる方法を知らない」というのはこういう事かなと私なりに考えています。

上手なたとえ話ではありませんし、自分の子どもがこの話を聞いてしっかり「算数を学ぶ理由」を理解してくれるかどうかは不透明です。

しかし「算数を知らない」ということは、こういうリスクを伴うのだと。

だから子どもたちは算数を学ぶのだと。

こういうことを、伝えたかった。


自分なりに満点回答とは言えませんが、今はこれが精いっぱい。

今後も自身のアップデートを続けていきたいと思います。

ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございます。

「私ならこう伝えるよ!」
「こんな考え方はどう?」
みたいなアイデアがあれば、コメント等でいただけると助かります。

次は国語や理科、外国語を学ぶ理由も考えていきたいと思います。

お付き合いいただきありがとうございました!


「今日より素敵な明日を」

合同会社みらいのおと
代表 門田邦弘

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