傷つきやすい人は保護されるべきか?
今の社会というのは昔よりもコンプラに対して厳しく、少数派に対しても少しずつではありますが寛容になりつつあるように思います。
病気や障害などに対しても昔よりは配慮がされるようになっています。
確かに良い側面もあります。
しかし過保護になりすぎている側面もあるので今の現状が必ずしも良いとも言い切れません。
些細な一言に傷つく人というのがいます。
今の社会では傷つけられた人は被害者で、傷つけた人というのが加害者であるという倫理観が当たり前になってきているように思います。
確かに悪意を持って人を攻撃する事や陥れようとする人というのは紛れもなく加害者です。
しかし今の世の中ではもはや加害者でない人までもが加害者にされてしまい、逆に被害者面をしている人が本当の意味では加害者であるという事が見逃されているんじゃないかと危惧しています。
相手が傷つく事を恐れて本当に言うべき事を言えない状況が果たして相手にとってそして社会にとって良い事なのかどうかを考えさせられます。
人から嫌われる事というのは多くの人間にとっては出来るだけ避けたい事です。
しかしそれでも言わなければならない事というのもあるのではないでしょうか。
相手を傷つける事が必ずしも悪であるのかどうか、よく考えるべきだとそう思うのです。
同じ情報を受け取っても傷つく人と傷つかない人というのがいます。
そして今現在の社会では「傷つく人」に対してあまりにも過剰に配慮が求められているように思います。
たとえばSNSで有名人の発言を捻じ曲げて解釈して傷ついてはクソリプを送る人に対しては本当にそこまでの配慮が必要なのでしょうか。
そういう人たちの為に怯えながら活動をしたり、些細な発言にキレる人にいちいち謝って活動を止めるというのが本当に社会にとって良い事なのでしょうか。
もちろん些細な事で傷ついたり腹を立ててクソリプを送る人にも事情があってそういう事をしてしまう背景がある事は想像ができます。
もしかしたら親からネグレクトされた人かもしれない、DVを受けていたかもしれない、育ってきた環境などによってメンタルが不健康な状態にあるかもしれない。
そういう人たちに対しては個別に何か治療やカウンセリングなどを行う必要があるのも確かかもしれません。
しかしだからと言ってそういう人たちに合わせて世の中のルールを決めていく事はあまりにも窮屈であり、その窮屈でつまらないルールに縛られる不自由な社会である限り心理的に不健康な状態の人は減らないでしょう。
これでは本末転倒です。
悪質なクレーマーや批判の枠を超えた単なる誹謗中傷に対しては強気な姿勢を持つ事も必要なのではないでしょうか。
理不尽な振る舞いをする人に対して弱気な姿勢ではさらにエスカレートして無理な要求をしてくるに決まっているのです。
また、例に挙げたようなクソリプなどのような攻撃的な対応をしない人の中にも異常に傷つきやすい人というのは多くいるように思います。
少なくとも根っこが悪人でなければ、無意味に人を傷つけたくて傷つける人というのはいないと思いますが、物事を病的にネガティブに捉えてしまう人というのがいる限りは誰が発言しようとも傷つける事というのは避けられない事です。
タイトルに戻ります。
果たして本当に傷つきやすい人は保護されるべきなんでしょうか?
僕は少なくとも保護されるべきだとは全く思っていません。
というよりもそもそも保護をする事自体がほぼほぼ不可能なんじゃないかとすら思うのです。
しかし保護されるべきではなくとも助けは必要であると思っています。
保護というのは危険や脅威から守る事です。
そもそも傷つきやすい人にとっては危険や脅威の数があまりにも多すぎるのです。
本来は脅威ではないものに対しても恐れの感情が強いために傷ついてしまうのです。
認知が歪んでいる事で物事をネガティブに受け取ってしまうので、簡単に傷ついてしまう。
では保護しないとしたら彼らに対してはどのような助けが必要なのでしょうか。
まずは存在の受容ではないでしょうか。
今の世の中は競争社会であり、競争して勝つ者や能力が高い者に価値があるという感覚が根強くなっているように思います。
しかし競争というのは本来であれば、勝っても負けても自分に価値があるという土台がある人の為のゲームのようなものだと思うのです。
負けたら地獄であるという意識が強い人にとってはこのゲームに参加する事自体がもはや地獄になってしまっているように思います。
自分の存在そのものを受容できないのは人から無条件で受容されたという感覚を一度も味わった事がないからではないでしょうか。
これは正直なところ仕方がない事だとそう思っています。
受容するだけの材料が得られなければ受容できない事は当たり前の事ではないでしょうか。
しかしだからと言って受容されない事を良しとしようとは思えません。
自己受容とは生命としてある種の絶対的な核だと考えています。
動物を例に考えてみましょうか。
ライオンや虎でも犬でも猫でもいいので想像してみて欲しいのです。
動物が生きていて自分を受容できずに自己否定をしているという事が果たして生命として当たり前の事だと思えるでしょうか。
自分の存在を否定するという事はもはや生命そのものの否定にあたるのではないでしょうか。
こういう状態になってしまっているという事実やそうなるだけの背景があるという事は素直に受け止めなければいけませんが、これが現状維持で良いとは僕にはどうしても思えないのです。
自分が傷つきやすい人間である、それはそうなるだけの理由があるので仕方がない事です。
その人が悪いとは思いません。
しかしそれをそのままで良いと思ってしまう事は決してありのままの自分の肯定とは呼べないと思うのです。
むしろありのままの自分の否定に値するとそう考えています。
自分がありのままだと思っている自分が本当にありのままなのかを考えてほしいのです。
家庭環境を主とした様々な環境的要因で傷つきすぎて自分がありのままを失っている状態であるという事にまず気がつく必要があります。
生命が生命に対して否定的であるという状態がありのままだと心の底から思えるのでしょうか。
そう思うのであれば、それはそう思うくらいの辛い経験をしてきたんだろうなと想像できます。
この感覚をどう伝えたらいいかをずっと考えていますが、簡単な事ではないので難しさを感じています。
しかしこの現状に対しては誰かが働きかける事をしていかない限り何も良くならない。
生きているだけで価値があると思えるかどうか、それよりも大事なことは他にないのです。
それだけは絶対に忘れてはいけないのです。
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