「みんな違ってみんな良い」の解釈

みんな違ってみんな良いという金子みすゞさんの有名な言葉があります。
この言葉は多様性が求められる現代の社会にまさにフィットする言葉だなと思います。

自分ができる事をできない人がいて、
自分ができない事をできる人もいる。

そういう特性の違いを当然のものとして受け入れて、役割分担したりしながら助け合っていきましょうというようなニュアンスが、「みんな違ってみんな良い」の本来の意味でしょう。

ところがどうも最近この言葉が一人歩きして間違った使い方をされている事が多く見受けられるのです。
と言うのも、この言葉を利用して議論する事を放棄してしまう人があまりにも多いのです。

あなたはこういう考え、私はこういう考え、考え方が違うのでお互いに関わらないで思うように生きていきましょうねというようなスタンスの人が増えてきているように思うのです。
僕はこれが完全悪だとは思っていません。
過干渉の否定という意味では正しいからです。

しかしこの思考によって人々がより閉鎖的になって自分の考えを広げようとしなくなるという流れは大きな問題だと考えています。
視点の違う人間同士が意見を交わす事で理想的な集合知を生み出すという社会にとって必要なコミュニケーションが廃れていくように思うのです。
日本が貧乏になっているのはこのような必要なコミュニケーションが無くなっている事が理由として大きいでしょう。

今の日本社会における「お互いに干渉しないで思うように生きましょうね」という価値観とは決して愛を原動力にした他者への受容ではなく、むしろ愛情飢餓と不信感による諦めという消極的な意味合いが強いのではないでしょうか。
どうせ分かってもらえない、分かり合えないという不信感と嫌われたら立ち直れないという自己不信によるメンタルの脆弱さの表れではないでしょうか。
このような解釈は、優しい言葉を隠れ蓑にした都合の良い解釈であり、愛のあるフリをした偽善であるとそう思えてならないのです。

近年特に若者の間では友達や親友というものの価値観が変わりつつあると感じています。
視点の違う人間同士でコミュニケーションをしようとすると衝突して傷つくと考え、深いコミュニケーションを避けて当たり障りのない会話で済ませようという発想が蔓延しているように思うのです。

しかし傷ついたり嫌われるリスクを負わずに友情や愛情を求める事はあまりにも馬鹿げています。
人はそのような何も乗り越えていない自己防衛的な関係に安心感を得ることなどできないのです。
嫌われないように演じた自分で嫌われない事では安心感は得られず、むしろ演じている事によってさらに相手に嫌われるんじゃないかというプレッシャーを感じてしまうのです。

無論、世代によって価値観が違うのは当たり前の事です。
そしてどの世代の価値観が1番良いと決めるつもりもありません。
どの世代にも一長一短がある事でしょう。
今の若者は過干渉な人が少ないという点を含め良い所があるのも確かです。

しかし深いコミュニケーションを避けてお互いに迎合し続けて議論を放棄するという価値観だけは日本社会にとってマイナスである事は明らかでしょう。
大衆がこの思考停止の状態では日本の生産性が上がる事などまずあり得ないでしょう。
何よりこのような風潮が日本社会だけでなく、そこに所属する自分たちにとってもマイナスであるという当事者意識も欠落しており、これは極めて危険な状態なんじゃないかと感じています。

日本社会がより活性化してよりポジティブなエネルギーに満ちた社会になる為にも、深いコミュニケーションを取る事の価値が見直される事をただただ祈るばかりです。

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