存在ハラスメント

今日ふと考えていた事を書いてみます。
僕という人間は存在そのものがハラスメントなんじゃないかという事です。
いきなりとんでもなくネガティブな事を書いているのは自覚をしています。
しかしふとそう感じてしまったのです。

それは僕自身があらゆる面でマイノリティである事に原因があります。
無論、マイノリティであるが故の強みもあるのは事実でポジティブな解釈ができる事も理解しています。
僕という人間は見方によっては非常に能力が高く優秀とも言えますし、別の角度で見れば非常に無能で厄介な人間とも解釈できると思っています。
しかしどちらにせよ僕という人間は社会のあらゆる受け皿から逸脱している存在なんだという自覚があります。

マイノリティであるという事は共感されにくいとか誰かと同じ感覚を共有しにくい事を意味します。
誰かから完璧に理解してもらうという事はマイノリティでなくてもほとんど無理な事です。
当然ながら僕自身も完璧な理解は求めていません。
しかし人間誰しもある程度は人から理解されたいと思う事が自然ではないでしょうか。
ところがマイノリティはそのある程度の理解すらもなかなか得られないというのが現実なのではないでしょうか。

そして僕はそれによりある種の飢えや欲求不満を抱えていると自覚しています。
この自分の中の飢えのようなものが僕の持つ強烈なエネルギーの原動力なのかもしれません。
しかしこの強烈なエネルギーは扱い方が非常に難しいものです。
このような強いエネルギーというのは時に身近な人間を傷つける事になるものです。
エネルギーがうまく循環できていない時には近しい人間に対してネガティブなエネルギーをぶつけてしまいそうになるのです。

人が強烈なエネルギーを持つ場合には普通よりも大きな受け皿が必要になってきます。
僕のような人間が人に頼ろうなどと思えば、強烈なエネルギーで人の受け皿の許容量を容易く超えてしまうのです。
したがって僕という存在は身近な人や信頼できる人を苦しめる存在、つまり存在そのものがハラスメントになってしまうんじゃないかとふと考えてしまったのです。

以前このような記事を書かせていただきました。

今回の記事で書いている事はつまりこの記事で言うところの「信頼」に対しての渇望、そしてその上で誰かを仮に信頼できたとしてもその相手に対して自分の存在そのものがハラスメントになってしまうんじゃないかという恐れがあるという事です。
特にその矛先が自分にとって最も大切な人たちに対して向かう事を恐れているのです。

結局のところ不本意でも僕は1人で何とかやっていくしかないのかもしれないという諦めなのか覚悟なのかよく分からない気持ちがあります。
無論、誰かと関わる事はしていきながらも本質的には人間は一人である、死ぬときは必ず一人であるというような話に行き着くのかもしれません。

今回この存在ハラスメントという言葉を思いついた時に僕が真っ先に思い浮かべた人物はジョンレノンの妻であるオノヨーコでした。
彼女は一般社会の常識の枠では到底収まらない人物であり、大衆に嫌われて悪魔のように扱われていた事もあります。
そんな彼女が唯一ありのままの姿でハラスメントにならずに存在できる受け皿となったのがジョンレノンだったのかもしれないなと。
それも踏まえると、ジョンレノンが銃撃されて殺されてしまった事件は彼女にとってどれだけ辛い事であったか、彼女は誰にも代えられない尊い存在を失ってしまったんだなぁと思うと胸が苦しくなります。

オノヨーコの作品は大衆を傷つけたり不快にさせる事が多いという意味も含めて、彼女は規格外な存在すぎて大衆にとっては存在がハラスメントになっていたと言えるでしょう。
おそらく彼女自身もそれに気づいて沢山悩み苦しみながらも闘ってきたんだろうなと思います。
しかしプラスに捉えるとそれだけ大衆に影響を与える、大衆が無視できない大きな存在であったとも言えるでしょう。

存在ハラスメントというと非常にネガティブなニュアンスではありますが、一度僕はネガティブに立ち返ってその上で闘っていきたいと思うタイプの人間です。
自身の存在がただのハラスメントで終わらない為にどう生きていくべきか、自分の受け皿をどうやって作り出していけばいいか、それを考える為にも自身の存在のハラスメント性と向き合いたいとそう思っています。

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