わたしとシャニアニ
劇場先行上映でアニメアイドルマスターシャイニーカラーズ1~3章、およびアニメアイドルマスターシャイニーカラーズセカンドシーズン1~3章を見終わり、個人としての感想をまとめておきたいなと思う。
序
前提として、万が一これを見て全然違うとか、そんなことないと思ったとしても、それは正しいということは(当たり前ですが)宣言しておきたいと思う。これは一個人の感想であって、正解なんかじゃない、そう捉えて欲しい。
わざわざなぜそんなことを冒頭で触れるのかというと、よく出る批判に対してそれは違うんじゃないか?だとか、この作品ってどう見るべきだったと思うのか?とかそういう部分にも触れるからだ。
故に、基本的には私はこれらの一連の作品に対して「きっと面白くないと思う人もいるだろうが、鑑賞スタンスにとってはとんでもなく面白いと思う人もいる」という、玉虫色の評価をしている為、褒めているように見えてけなし、そして批判かと思えば肯定する、というとんでもなく曖昧な言説を展開するということだけ、前提として述べておきたい。
つまり、褒める文章を読みたい人にも、けなす文章を読みたい人にも、どっちにも怒られるやつである。誰も得をしないが、それでも私の感想として記しておきたい。
そしてここで事前に明言しておきたい。私はシャニアニを肯定する、シャニアニ、面白い作品だ。だが、全員にとってそうだとは思わない、君が嫌いでも構わない、君の感情は君だけのものだ、大切にして欲しい。
そして、当たり前だがネタバレには注意!どういう風に見ればいいのか?を知ってから見たいという場合は良いが、基本的にはまっさらに見た時の感情というのを大事にして欲しいとも思う。
事前開示
ファーストシーズン直後に作成した感想noteや、オンタイムでの感想類を一部抜粋して載せておく。読む必要はないが、興味があれば。
※note二つと、ふせったーのリンク、ふせったーはよりストレートな感想が並ぶ。なおこのnoteを書き終わったら単体で三章の感想もふせったーで書きたいと思っている。
また、本文に入る前にこれらの感想を述べている私がどういった人物なのか、簡単に一言で記載するならば「シャニマスのコミュが好きな、765からのアイマスP」です。
描きたかったのはきっと
絵でも、漫画でも、文章でも、一体”何を”描くのかという根本の部分を主題であったりテーマなどと呼ぶことは多い。もしくはその主題を”なぜ”描くのか、という根底部分を「問題意識」と呼ぶことがある。それを描くことによって、なにを成したかったのか、の部分だ。
それらは表現者によって語られる場合もあれば、見ている側が(こうなんだろうか)と考える場合もあるが、私は後者の立場でシャニアニの問題意識を「シャニマスを描く」と「感情を描く」という流れで読んでいる。
※繰り返しになるが、正解ではない、一つの見方の話である。
これ以降は文章が長くなるのでファーストシーズンのことを一期、セカンドシーズンを二期と呼ぶ。一期・二期のそれぞれの流れを今一度見ていきたいと思う。まず全体の構造の話をし、その後にそこから見える演出などについて触れていく。
構造
一期では顔出し→wing→全体と、初期4ユニットがユニットとしての「色を見つける」話であり、そこから283プロダクションとしての一塊となる話と位置づけられる。それはキービジュアル&キャッチフレーズの「一人分の空、一人分の羽根」でも明確で、彼女たち個々人では一人分であるところを、寄り集まって一つになることで翼となる、という”個から集団へ”という主題が見えてくると思う。その上でまず第一の表面上のテーマとなるのが「ユニットとしての色を見つける」であるだろう。一期は「個々人→ユニット→283プロ」という流れで個から集団となっていく過程になっている。
合宿回で一人一人がアルペジオと共にイメージを膨らませて、そして(表面上は)一つの舞台を共に考えるというシーンもそれを踏襲しており、個から集団へという転換点としての283プロ全体としての合宿な訳であるが、こういった演出意図があると思って私は見ている。
そして一期を踏襲した上での二期というのが、今までと毛色の違う2ユニットの襲来と、そこから始まる一度一塊となった283プロダクションの各ユニットが「それぞれが自分の意思で羽ばたく空を見つける話」となっている。一期で一度固まった283プロとしての一塊を、再びそれぞれの個人やユニットとして見つめ直す。そうして得たものをユニットと言う集団へ還元していく。”個が集団へ”と言えるだろうか。個人やユニットとしての在り方、向かう先を固め、そうすることで全体が補強されるという流れだ。
シャニアニ全体の演出面に関して、個→団→個→団……というこの大枠が全てのベースに組み立てられていると思う。分かりやすいのは最後のまとめだろう、照らし合うこと、というのは一期も二期も出てきた単語になる。
構造から読む演出たち
・題字
クソダサフォントなどと揶揄されていた題字に関しても、演出意図があるように思う。一期の流れと二期の流れからとらえれば、彼女たちはまずユニットとしての色を見つけた後に、さらに奥底、自分たちが望むもの、どういったアイドルになりたいのかを模索する。初回のストレイライト顔出し回で「彼女らは既に自分たちの色を見つけている」というセリフがあったと思うが、彼女たちは二期二話でプレイバックという形でまとめられた出来事によって、色を既に見つけており、かつそれは現在進行形ではなく過去回想という形で提示されるが故に、彼女たちにはもう既にあるフォントではないものが当てはめられている。一方で、どこに向かうのか、という惑いを含み幼馴染としての形はあれどアイドルとしての色を探す立場にあったノクチルたちは、一期を踏襲したフォントである。
ユニットとしての一塊になった彼女たちが、”自分たち”の意思で見つけた「”自分たちの”大切なもの」を表現するのに己という存在を表す”手書きフォント”を使う、という意図が見えてくる。
・群像劇としてのフォーマット
また、一部の批判にぶつ切りでシーンが急に変わるというものがあったが、私個人としてはまずそう感じていなかったということを触れておきたい。(※そう思った人の感想は否定しない、あくまで”私は”だ)
おそらくそれは全体構造を考えた際の群集劇としての一般的な書き方だ、と判断したからだと思われる。時系列を同時並行に様々な集団の現在を描く場合はどうあれああなる。一期というのは個からユニットへ、そして283プロへとなっていく以上、真乃というその集団の中央に定めた存在はあれど、4ユニット16人+3名の集団群像劇なんだなという視点で見ていたので、一切気になっていなかった。
・シャニマスとしての時系列
アンティーカ感謝祭がスキップされたという批判に、あの描写からするとそういった意図はないと思う、と私は一期終了後二期前時点で表明していたが、それは実際に結果として結実したので、個人としてはもう一度一期を見て欲しいと思う気持ちもある。実のところ感謝祭に至るまでの伏線は様々な手法で表現されているからだ。
一期後の感想でも記したが、原作ファンなら読めるラインと全く知らなくても問題ないラインがある。非常に分かりやすいので感謝祭に触れるが、原作ファンの脳内にある時系列として「スタート~wing~初年度シナリオ~1stライブ~ピクニックバスケット」というほぼ初年度一年間の再現であるという部分/一期wing以降ソロの仕事が増えている描写/「銀曜日」構図による、分かりあっているように見えたとしてもそうではないという表現/居眠りするほどの疲れも口頭では否定する気遣う性格の描写/自分自身に言い聞かせるような響きもある台詞(そもそも「忙しいことは~」はキーとなる台詞でもある)/夕日を背景に印象的に暗く沈む描写……こういったものは原作ファンへの自然な導線として存在している。
全く原作を知らずに見た場合も、素直に話の展開として平気なんだなよかったねで終えられる。もしくは原作ファンの導線でなにかがあるんだろうと気づく場合もあるだろう。
時系列の話をしたので少し触れておこう、1stライブは直球で1stライブだったわけだが、2ndツアーは現実には存在していない。けれどもあの舞台構成と背景の翼、ノクチルの演出はMD公演がモチーフだろう。途中で存在しないハロウィンライブを挟んだものの、おおよそ現実のライブイベントもモチーフとして採用されている。ここはファンサービス部分だろう。にやりとさせられた。
シャニマスというものが歩んできた一面を再現する、という熱意を感じられる部分だ、物語としてではない、我々とシャニマスが歩んできた部分である。
原作再現という壁
繰り返し繰り返し、私が述べていることは決して正解ではないとそろそろ耳にタコができるくらい繰り返し言っているが、そういう意味では外れた部分ももちろんある。原作再現は避けるだろうという予想は、気持ちいいほどに綺麗に外れた。私は結局シャニアニチームの覚悟を見誤っていた訳だ。この部分は完全に読み間違えたので謝罪したい。私は愚か者です。(そしてこれにより、私の言っている内容はあってたり間違ってたりするということで納得いただけると思う。)
その上で二期に関してはいわゆる「原作ありきの映像化」という点で、鑑賞者によっては非常に賛否が分かれる部分かと思う。私は一期後の感想noteで『決して思い出には勝てないからこそ、ただの原作再現は避けたい気持ちが分かる』という風に記したが、二期ではそこの部分にシャニアニチームは”挑戦”をしてきたことになる。
その挑戦の結実
原作となるコミュの長さの差はあれど、決められた時間内にどれだけ要素を詰め込めるか、というのが原作ありきの映像化作品には求められ、当然シャニアニも変更(主にカット)が発生している、原作を知っている者にとっては、言い方は悪いが”あらすじ”を見ているようなものになるが、非常にこの部分で巧みだったなと思うのは、察してはいたがやっぱりそうなのか、という涙や動きのシーンを追加で描いてきた所だ。
”局の廊下で写真を撮るノクチル”に、身勝手な現場の空気感。
薄桃色で一人言葉にならない自分への怒りや悲しみややるせなさを含んだ発声の後に”泣き崩れる”千雪。
過去の思い出とリンクする”髪を撫でられる”という咲耶の体験、結束を深めたアンティーカの気持ちを共有するような”ハグ”。
冬優子のリーダーシップ本をそっと隠す動き、鏡に”手を伸ばす”愛依、
ちょこ先輩を心配する”視線”……原作を知っていたとしても心揺さぶられるシーンの「追加」がある。内容を圧縮・カットしながら付け足された動きのある部分は、まさに媒体を変え映像化する意味とはこういう部分だよなと個人的には思っている。
一方で当然描き切れない部分も多い、表現されなかった台詞や展開、そしてここが一番賛否が分かれるだろう、なくなった存在や出番も多い。ノクチルが顕著で、ここは本当に個人によって大きく捉え方が変わると思う。
ザストと天塵とgradと
「海と花火のシーンなくして天塵は語れない」そんな声も目にしたが、私はそうでもないと思っている。誤解のないよう宣言するが、私もあのシーンは重要であると思っているしかつ大好きである。これは物語のメインをどこに定めるのかという話に繋がっていく。物語の再構成についての話だ。
(最近はシンプル化を進めている感はあるが)enzaのシナリオは複数モチーフや複数テーマを時に重ね、時に並列して描くことが多い。それが物語に複雑さや奥行きをもたらしている訳だが、一方で難解さをを呼ぶ。その全てを描くのは難しいだろう。
そんな中でザストレイライトは番組の下りを省略し後半に注力、天塵は前半に注力したことになる。物語としての再構成で省略された(描かれなかった)部分が一番好きだという場合は納得いかない気持ちを抱えるのも分からないでもない。
予告カットが出た際に、本当に透gradをやるのか???と心底から困惑したが、gradの要素をピンポイントで拡大したのが11〜12話になる。まさかミジンコも湿地も100周もないのに根柢のベースは確かに透gradであったと思うとは思わなかった。これは複数のモチーフが複雑に絡むものから「生きる」というモチーフのみに注力するとこうなるんだという純粋な驚きが強い。ここは非常に賛否が分かれると思う、天塵やザストなどの半分、ではなくて点での抜き出しにオリジナル展開を重ねた形になる、話の根底を同一にしながらも違う話を描いてきた形だ。
思い出には勝てない
私としてはアニメとしての再構成、むしろ再翻訳とアレンジという点でうまくやっていると評価しているが、受け入れられないというのもしょうがないことと思う。やはり思い出には勝てないのだ。
好きであればあるほどこだわりも生まれてしまう。原作があるものの再現という難しさは感じるところだ。なお、私だったら透gradより小糸STEPのほうが良くねぇか?と思うが、そもそもシャニアニのシナリオ作ったのいつなんだろうねって話もある(シナリオ作った時点で小糸STEP存在してない可能性も高い)。
思い出に勝てない、で諸兄が想起するのはアンカーボルトソングだろうか、私もenzaのシナリオが大好きなのだが、大好きだからこそ思うのは、あれらを丁寧にやったら1シナリオごとに劇場版が出来ちゃうんすよ、という部分だ。アニメに収める、として考えた時に、しょうがない、で飲み込む部分になるとは思っている。
手法への疑念
劇伴関係
ここは私個人の趣向としてだが、通常の鑑賞で劇伴というのは自然に画面演出や心に寄り添っていればいるほど初見の鑑賞ではその存在を意識することは少ないと思っている。二期の冬優子とあさひのシーンのコミカルにアレンジされたものや、はづきと千雪のシーンで実は流れている和風居酒屋BGMに気づいた人はいるだろうか。あれだけ文句をつけていたならものすごく注目して聞いていたに違いないよなぁ?という言葉は、かなり性格と意地が悪い発言だと自分でも思う。
劇伴関係が悪い方向で耳についたとしたら恐らくはその楽曲や曲調ではなく、そもそも普段意識していない部分に意識を向ける退屈さを感じさせてしまったのが原因だろうと私は踏んでいる。
劇伴の見方という観点で見ると、実のところ劇伴は非常に少なく、前述の劇全体の印象からするとコミカルな演出が入る部分、そしてあとは感情をベースに読ませたい場合の場面になる。どちらかというと後者の部分の印象が強いだろう、そこまで激しい心の動きではない凪の中に立つ僅かなゆれ動きを読ませる必要のあるシーンだが、後述するが情報不足がそこへ違和感を感じさせる原因でないかなと思う。
折角プレイヤーにとっては印象深く評価も高いenza版のBGMがあるのだから、アレンジして使えばいいのに、というのは私も正直ちょっと思う。ここも解釈するならば、いつもの、を避けたのかもしれない。このBGMが流れるということはこういう展開がくる、という刷り込みのようなものがあることは否めない。全体的に目指したのは静謐なのだと思う。
3Dという技術
私個人として、シャニアニに対して純粋に惜しいなと思うのは、描きたかったことは理解すれど、それを描き出すための手法、具体的には背景や小物などもオール3Dというのは、やはり厳しいものがあったのではないかという部分だ。
この部分に関しては純粋に私も「なんでだよ!!」と絶叫するが、台詞やシナリオではない部分などで繊細な表現と描写の機微により、細かな感情やありふれているかもしれないがそこから感じられる情景をより丁寧に描き出す、……ということをしたかったんだろうなぁ!という視点で考えると、表面上で見ると劇的な展開がより少ない一期の方がよりそういったことに関する高い技術が必要なのだが、私から見ればどう見ても二期の方が、複雑な空の色合い、背景の美しさ、手指の震えや、首の微細な角度調整により言葉にしなくても現れる感情表現……そういった技術が上がっている。なんでだよ、そこは本当になんでだよ。(一句)
画面に占める情報量が3Dだと足りなくなるんだろうなと個人的には思う。画面上に読み取るべきと感じられる情報の不足が発生すると、読み解きの為に脳がフル回転する必要はなくなり、だからこそ表面上に退屈さというのが現れてしまう。
……とまぁ、私個人としての2D好きの気持ちが暴れそうになるが、ここも中々不思議な心地がある。3Dに違和感があるな、どこが悪いんだろう?と思って画面一つ一つをじっと見つめると、驚くほどに普通、というかむしろ綺麗なのだ。どこが悪いとかよく分からない、取り出すと良いのに、全体で見ると、もうちょっとこう、質感を……と言いたくなるのは、私が映像技術に対するずぶの素人である部分も大きいだろうが、実は品質としては悪くないんだろうなと捉えている。要するに限界値を叩いてくれているが、鑑賞側からするとそれでもやっぱりもっと、という感情があるという感覚だ。
デカすぎる升と豪快過ぎる量の日本酒とか、純粋にまじでそこは技術かモーションの使い回しかっすかね、となる笑える変な描写もあるが。
これらはまさに「感情」を描き出したかったからこそぶつかった壁だろう、感情をどう描くのか、なんなら全ての創作はその壁に必ずぶつかる。
表現者としての「責」
さて、つらつらととりとめなく、こう読めるよね、こう捉えられるよね、意図は多分こうだよね、こう見ようと思えば見えてくるよね……と前章で色々と個人としてのシャニアニ解釈に触れてきたが、これらは私が”勝手に”読み取ったものであり、繰り返すが決して唯一無二の正解ではない。
ストレートに厳しいことを言うが、「表現したものが主に伝えたかった層に伝わらないなら、表現者としての技術不足」だよ、とも私は言いたい。
初見では意味が分からなくても、圧倒的な画面作りで人の感情を乗せてきた作品をいくつも知っている。シャニアニはきっと静謐な表現によって繊細で美しい人の心の動きを描く……その域を目指したかったのは分かるが、おそらく目指したかった高い高い理想の域まで十分に届いたとは言えないとも正直思う。「どれだけ裏側に意図があっても、それが伝わらないのであれば、それはないのと変わらない」からだ。
ただ、私には伝わった。
シャニアニは読めば読める、見ようとすれば見ることが出来る。私に伝わったということは、シャニアニを読める人間は確実に多数存在している、そう思っている。私は別に読解に自信を持てるほど、特別な存在じゃないからだ。
それにシャニマスというものに引きつけられるタイプの人間には、それらが読める人間が多いのではないか、という根拠のない期待の気持ちもある。(そう、これは期待だ)拙くも理想に手を伸ばしているなら、その手を掴みたいし、掴んでくれるだろうという信頼には応えたい。”私は”その手を掴みたい。
シャニアニというものの評価は、鑑賞におけるスタンスの違い、そしてアニメに求めるものの違いによって、確実に見ているものが変わってくるだろうとも思う。これはどちらが正しいという話ではなく、選択の話だ。ここは強調しておきたい、私は心から自分の見方が正しいとは思っていないし、自分と違う見方をする人物を攻撃する気は毛頭ない。
故に、もしも私が批評者として立つならば、枝葉の甘さにチマチマと文句をつけるのではなく、そのコンセプトからして指摘すべきだと思っている。アニメーションという媒体と表現者の技巧の程度を鑑みて描くものは検討すべきであり、目指すべき表現はエンターテイメントを主体としたより伝わりやすいものを選択し、その中で問題意識を感じられるものを考えるべきであったのではないか、などの方向性だ。
どちらにせよ批評をするにもまず、根底にはまず理解をせねばならないと思う。
※なお、感想なら別だ。見て感じたことを表現することに、制限はない。その表現の方法を間違えないようにしたいが。
友人と話をした中で、「ああいう描写は群像劇としての標準だと思うんだけど」などの発言をして「そんなに考えながらアニメは見ない」というツッコミを受けたことがある。それもそうだなと思った。構造やら主題やらをこねくり回しながら鑑賞するという立場は、鑑賞上の楽しみ方の一種でしかなく、楽しみ方を均一に鑑賞者全体へ広げるというのは無理のある話だ。同じものを見ても、同じ見方にはならない、当たり前の話だ。
(なお、私が好きなアニメーション作品は色々あるが、ある意味で考えなくても見れるの到達点とも言える日常系作品も見る。私はゆゆ式が好きで、あれもながら見とかじゃなくじっくり腰を据えて見たし、あの三人の裏に時折見え隠れする遠慮の欠片があるのがよくて~などと言ったら「狂人」と言われたこともある。(※基本的にながら~ができない))
シャニマスに求めるもの、アニメに求めるもの、それぞれが違うなと思ったのは、コンテンツアンケートにも感じた。コンテンツアンケートの記入枠が3~4行しか見えなくて打ちづれぇよとも思ったのだが、ああやって視界を制限されると、”本当に求めたいこと”だけ集中して書きたくなるものだなと感心したものだ。私はシナリオと挑戦の姿勢を求めたいと記したが、観測範囲でも多種多様な要望が上がっていたし、時には相反する要望ももちろんあった。人は同じものをみて違うことを考える。
その上で、表現者、それはコンテンツの提供者という意味だけではなく、SNSで言葉を発信する我々もまた一介の表現者だ。冒頭にも触れたように、表現者は正しく伝わるように努力する義務があると思っている。下手くそはお互い様だろう、という部分ももちろんあるが、表現者として理性のあるものを求めたい、そう思っている。そして自分もそれを負っている。
他人の意見を自分のものとして安易に引用していないか?常に問いたい。
鑑賞者としての「責」
そしてだからこそ、これを記している。
シャニアニを肯定したいという立場の私も、シャニアニが例えば誰が見ても面白い後世に残り続ける大傑作だとは言わない、これは一期の感想でも触れたし、一期二期を通しても個人としては変わっていない。
が、ちゃんと読み解けば読めるよと、こう読めば、こう読めるよ、読んだよということを記しておきたい。
アマチュアとはいえ表現者の端くれとして、全てを説明調に描きたくないという気持ちや、シャニマスを好むような層であればきっと意図を察してくれるだろうという期待と、それを信じる勇気、そういったものは心底から理解できる。シャニアニ一期でも触れられたその「最初の勇気」を支持したい。求められるならば応えたい。
幾度となく繰り返すがこれは”私の感想”だ、私のものであって誰かのものではない、けれど似たような気持を持っている人がいるならば、それは嬉しいことだと思う。勇気を信じて受け取った人がいて欲しい、そう思うからだ。
私が勝手に読み解いたものは、勝手な個人の解釈であって、正解でも何でもないが、行間に存在しない邪悪を見出したり、解釈を誤読して怒ることだけはしたくないと思う。それに短絡的で直観的、そしてそれは時にユーモラスであるからこそ人を引き付け、使われる、乱暴な言説を手に取り振り回したくないという強い気持ちもある。
それに、人は思ったよりも流されやすい。”自分の意志を持ちつつも、それは常に間違いを含んでいると思っているべきだ”というスタンスについての話はよく私が口にしていることであるが、自分の感じたことが正しいと強固に思える人間はそう多くない。もしも、私のこの言説がだれかの気持ちと寄り添えるなら、それは意味があるものだと思って様々な感想を記している。
シャニマスよ、こうあれ、というエゴ
私は私のスタンスとして、分かりづらい物語が大好きだ。それらをじっくり咀嚼して、考えて、考えて、飲み込むのが好きだ。
別に過去のシャニマスも特別分かりづらいものだとは思っていないが、確かに噛めるだけの硬さがあるものがあったと思う。シャニアニに対して一定の評価をしているのも、アニメという媒体でそういった硬さを一部残してくれていたからというのもある。
もっと分かりやすくエンタメに振る選択肢もあったと思う、途中批評者として立つならばそこを指摘すると言ったし、私は非常に雑食なのでそれはそれで楽しく見ただろう。だが、そうではないことを選択した、その挑戦を称えたい。
いつの日かシャニマスが私の地雷を盛大に踏んでくれることを期待する気持ちがある、それくらい挑戦していってほしいと願っている。私はそれに笑って、怒って、シャニマスを楽しむだろうと思うから。
……とまぁ、後半はもはやシャニアニを飛び越えて、表現者とその受信者とか、発信者としての我々とかそういう話になってしまっている。盛大な脱線だが、なんかシャニマスってこういうこと喋りたくなるコンテンツなんすよね。
もう一万字を超えているが、まだまだ語っていないことも思いつく、それは賛否両論で、私の中に渦巻いている。これが心底から楽しいと思う、私のシャニマスだ。いい加減長くなり過ぎた、筆を置きたい。
やっぱ好きだよシャニマス。
シャニマスよ、羽ばたけお前が望む空、それがどんな空だとしても