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【桜の季節に、しばし、日本で。】


マダガスカルに来てから1年が経とうとする4月、私は日本で2週間の休みを頂いた。

「やっと、ここから抜け出せる」

そんな本音はマダガスカルの人には言えるはずもなく、
「92歳のおばあちゃんの誕生日を祝いに帰る」
とマダガスカル人が納得しそうな理由をつけて戻ってきた。

関西空港に到着した。
出国ゲートで待っているはずの両親の姿が見当たらず、とうとう親不孝な娘は見放されたのかと思ってしまった。本当は、もう一つのゲートに行っていただけだったのだが。

久しぶりに見る両親は、なんだか老けたように思えて寂しかった。それでも、意図のわからない質問をする父と私のほっぺたを両手でもしゃもしゃする母の相変わらずな具合に心臓がほぐれたような気がする。

その日は、あまり眠れず、母と韓国ドラマについて語り明かし、母を寝不足にさせてしまった。

「おばあちゃん、帰ってきたで」

次の日、祖母の家に行った。
「ああ、来たの」といつもと変わらない様子だった。

お土産に買って行ったバオバブのポストカードとワオキツネザルの置き物を渡す。
喜んでいるのかどうかもわからないが、ちゃんと電話の横にワオキツネザルを鎮座させていた。

92歳直前の彼女は、亡くなった夫や息子との幸せだった昔話、自分の老いの話、1年前となんら話すことは変わらなかった。
「いつ死んでも、怖くないんだ」と言いながら、祖母はあることに希望を持っていた。

それは、「たえちゃん(私)のウエディングドレスを見てみたいな」ということらしい。

昔からずっと言っていたが、結婚適齢期に差し掛かり、それを言われてしまうと、心に北風が吹いたようだった。

おばあちゃん、
なんの予定もなくて、本当に申し訳ない。

「おかえり」

それから怒涛のように、いろんな人に会った。
インターン時代の先輩、上司、学生時代の恩師、アルバイト仲間、幼馴染。
結婚や転職、みんな様々なライフイベントを乗り越えていた。

「おかえり」の言葉に、やっと自分に居場所があるように感じた。
私は疲れていたのだろう、マダガスカルの生活のしんどさばかりが、口から出てしまう。
日本の居心地の良さにマダガスカルに戻りたくない気持ちだけが募る。
街を歩いていても、誰にもジロジロみられず、嫌な言葉は言われない、そんな当たり前がとても幸せに思えた。

「今日は、一緒に寝ようかな」

あっという間に大阪で過ごす時間は終わりを迎えた。
何か特別なことをしたわけでもなく、家族とのたわいも無い時間を楽しんだ。

実家の寝室、姉と二人で川の字になり突然懐メロ大会が始まった。
祖母の家では、おばあちゃんが私と一緒に寝ると言い張って、コタツから出ようとしない。
母とは、行きつけのカフェで二人してマンゴーヨーグルトジュースを飲み、家で真似して作ってみた。
父とは、たわいも無い時間だけが過ぎた。

そして、大切な人のお墓参りを済ませた。

「ん、じゃね、ばいばい」

東京の知り合いに会うために、フライトの前日に東京に向かう新幹線に乗った。

母は、ホームまで見送ってくれた。
朝から豪勢な朝ごはんを用意し、張り切っていた母だったが、新幹線を待つ時には泣いていた。
珍しく母は、私を抱きしめて離さない。

「ん、じゃね、ばいばい」と照れ臭さを隠すように、私は新幹線に乗ってしまった。新幹線が発車するまで、母はホームから私に手を振り続けた。隣の人もいるし、恥ずかしかったが、私も手を振りかえした。

手を振りながら、どう頑張っても涙が止まらない。新幹線が発車して、京都駅についても涙が止まらず、おそらく名古屋あたりまで泣いていた。

「また1年が始まる」
そんな切なさと覚悟が入り混じった涙だったのだろう。

「お久しぶりです」

東京で会った人は、私のとても大切な人だ。

日本にいても頻繁に会えるわけではないが会うといつも、美味しいお酒と共に、お互いの近況を話し合い、素敵な時間が流れていく。

今回も相変わらずの素敵な時間が流れた。彼にマダガスカルについて話していると、自然とこの1年のマダガスカルでの私を認めることができた。
そして、また1年頑張ろうと思えた。

「Tongasoa indray (おかえり)」

相変わらず、狭いコミュニティだ。
マダガスカルに戻ると、みんなが私の不在を知っていた。
「お土産はどこだ」というめんどくさい挨拶の言葉とともに、「おかえり」と言ってくれる人たちがここにいた。
ここはここで、私の居場所なのかもしれない。

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