【短編】月のみこは、たまゆらに。 ー中編ー #note創作大賞応募作


若菜は、まるで見てはいけないものでも見てしまったかのように青年から視線を外した。

…いや、実際にそうであったはずなのだ。
若菜が見ていたのは決してこちらを振り向くことのない横顔、決して世界が交わることはないとさえ思わせる気高く尊い後姿であったはずだった。


落ち陽の最後のひとかけらの輝きが、水平線の向こうに消えていく。
やがて訪れる闇の気配を含ませながら、空は静かに濃紺へと色を滲ませていった。

永遠にさえ思えるその一瞬の移ろいの中で、先に口を開いたのは青年であった。

「どうしたの」

それはこちらの台詞である。若菜は彼の言葉の意味するところがわからないまま、ただ彼を見つめ返した。
黙ったままの彼女を見、青年は静かに言葉を発した。

「私は別に、怒っていないよ」

水滴が湖に落ちるような涼やかな声だ。その雫は水面に波紋を広げて、湖水と静かに溶け合っていく。
その声音に触れたからだろうか、若菜は体の強張りが少しずつ解けていくのを感じた。

「こちらに来て」

青年に導かれるまま、若菜は部屋の中へ足を踏み入れた。
今まで一度も入ったことのない聖域である。
心なしか、ひんやりした膜のような気が肌に触れた感覚を覚えた。

見渡すと、部屋の中にはほとんど生活具らしい物がなかった。彼がいつも体を預けている脇息、そして几帳が数枚ほど彼の座所を囲むように置かれているだけ。その布はさながら透き通った空蝉の羽であり、暮れゆく空の面影をうつしながら月を待ち望んでいるようであった。

「あなたが初めてだったんだ、こうして私を見に来てくれるのは」

青年の言葉に、若菜はいくらかバツが悪くなって目を逸らした。

「…ご気分を害したのならすみません」
「どうして?」

その疑問符に顔を上げれば、青年は濁りのない瞳で彼女を見つめている。

「私は嬉しかったよ。もう何年も、こんなふうにお話し出来る人はいなかったから」

そう言いながら浮かんだ彼の微笑みは、どこかいびつに見えた。凝り固まっていた土を無理やり掘り起こしたようなゆがみがある。
若菜がつい目を奪われていると、その視線に気づいた青年は口元に手をやった。

「ここ、おかしいかな、…ずっと笛ばかり吹いていたからだろうか」

「ずっと」
その単語はずっしりと重みを持って若菜の中に落ちていった。彼がいっときも笛を手放さなかったのを若菜は知っていたーー見ていたのだから。

「どれくらい、ずっと」
「ここに来たときから、だよ」


そうして、青年はぽつりぽつりと語り始めた。

自分はこの神社の表の茂みに産み落とされた子らしいということ。物心がついた時にはこの竜笛を手にしていたということ。

親の顔は覚えていなかった。
ただ、幼い頃には仲間たちと水遊びをしたり森を駆け回ったりしていた想い出が朧げにある。

だが、いつからだろうか。気がついたときには彼はこの部屋にいた。
この部屋で、竜笛を奏で続けてきたのだ。

「…大変ではなかったの」
「そう思ったことは一度もないんだ」

青年は首を傾げた。
「私には笛があるから」

答えになっているようでなっていないその返事に、若菜は口を噤んだ。

いつの間にか、辺りは深い藍色の闇に包まれていた。銀白色の月だけが煌々と二人を包んでいる。
その光が落とす影を見つめながら、青年がふと口を開いた。

「…そういえば、明後日のお祭にはあなたは来るの」
「豊穣のお祭のこと?」

青年が頷くと、若菜はもちろん、と首がもげるほど首肯した。彼女は巫女として、その祭りのために長い間準備をして来たのである。
そう、と青年は微笑んだ。

「そこで、私は笛を吹くんだ…、今まで、そのために続けてきたから」

その言葉に、若菜は目を開いた。
「あなたが演奏するの?」
「そうだよ。今年は、私が十八になる年だから」

また答えになっていない返答に、若菜は返す言葉がなくなって青年の笛袋に視線を落とした。

「これ、気になる?」
青年は少し笑うと、事もなげに紐をするりと解くと袋から竜笛を取り出した。
「触ってごらん」

唐突に差し出された笛に若菜は面食らって断ったが、青年は首を横に振った。
「私じゃない誰かが触れてくれた方が、この子も喜ぶかもしれないから」

彼の言葉に、若菜は恐る恐る手を伸ばす。
その掌に、青年がそっと手を重ね合わせて笛を触れさせた。

なめらかな木面が手に心地よい、少しひんやりとした感触の竜笛である。
青年のあたたかな手の中で、それは安らかに呼吸をしているかのように感じられた。

今宵の月光は、なぜか柔らかかった。
それは、宵に眠りゆく世界をその胸に抱いて、静かな息の音に耳を傾けている。


「優しい子でしょう」
青年が笛をしまいつつ発した問いに、若菜はそっと頷いた。

しゅるり、と青年は笛袋の紐を解く。
「これを持っていって」
若菜は、今度は抗わなかった。

その手に紐を手渡しながら、青年は若菜の瞳を見つめて微笑んだ。

「また、遊びにおいで」

その瞳は、ほんのすこしだけ淋しげな色を映しているように見える。
それが月光のせいであったのか、若菜にはわからなかった。

その日は朝から、雲ひとつない晴天であった。
からりとした爽やかな秋晴れの空の下、忙しげな人々の声が行き来する。

豊穣を祈祷する祭、その日である。

騒がしかった神社の中も、夜が近づくにつれてそれらの声は影を潜めていく。夕闇がとっぷりと空を覆う頃には、なんとも形容し難い神妙な空気感が社一体に落ちていた。

この日のために、年数回着るかどうかの正装に身を包んだ巫女見習いたちは、互いの初々しい身なりを見合いながら目配せし合う。
どことなく昂揚した面持ちの少女たちの中で、若菜は彼女たちとは異なる思いを頭に巡らせた。

(あの人が演奏するんだわ…、みんなの前で)

準備を終えた巫女たちが祭りが執り行われる舞台に向かう間も、若菜の脳裏はその一点で埋め尽くされていた。
透廊の明かりを靡かせるほんの少しの風が、はりつめた宵をわずかに揺らす。
朗々と鳴り響く虫たちの声が、今日はやけに際立って聞こえてきた。

舞台は、岩壁に張り出すように組まれた櫓の上にあった。
そのすぐ両脇を、細々とした滝が涼やかな音を立てながら流れ落ちる。周囲は森に囲まれており、その深緑は苔むした岩の黒さと相まって、重々しい姿を篝火のもとに現していた。

巫女たちの座席は、舞台を見上げる形でそのわずか下に設けられた建屋の中にあった。若菜たちがそこに腰を落ち着けるのと程なくして、向かいにある離れに物見客たちがどよどよと入ってくるのが見てとれた。

それらの囁き声は、舞台上の太鼓の前に衣冠を纏った男性が現れたのを認めるとぴたりと止んだ。

紺碧の夜空の下、大太鼓の音が空気を震わす。


祭の始まりである。


儀式は神主の挨拶に始まり、楽隊が管弦を遊ばせ、大巫女の祈祷へとつつがなく進んだ。
祈りを捧げる大巫女の背中に、その白い髪が月光を反射して揺らめく。
さながら川が緩やかに大海原へと流れ出すかのような後ろ姿に、知らず、人々は手を合わせて祈りを捧げた。

例年ならば、この後にそのまま大巫女が終わりの辞を述べ、皆はささやかな宴へと足を急がせる運びであった。

しかし、大巫女は祈祷を一礼で締め括ると、深く首を垂れて祭壇の側の几帳を巻き上げたのである。


その奥から出て来た一人の人物に、場は小波のように揺れた。


月光が透過してしまいそうなほどすきとおった肌によく映える、白絹の狩衣。厚い装束の上からでも見てとれる、ほっそりとした身形。


若菜は物見席の奥で息を呑んだ。

「『竜笛のひと』だわ」

背後から聞こえてきたその声に、若菜はハッと振り返った。

「そうだわ、その人よ」「本当にいたんだわ」
物見席の巫女たちは、舞台上のその人に釘付けになりながらその名を囁き合う。
「ねえ、若菜、あなたの話どおりだったわね」「あの人なんでしょう」
周囲から肩を小突かれつつも、若菜は青年から目を離すことが出来なかった。

唐突な謎の御仁の登場に揺らぐ会場をものともせず、彼はすらりと手を伸ばすと懐から竜笛を取り出す。
そして、歌を奏ではじめたーー若菜が、いやこの場にいる誰もが、かつて聞いたことのない調べで。

その音色は、周囲の滝の流れをそっとなぞるように響き出すと、その清涼さをいっぱいにたたえて階下へ流れ込んだ。客席の人々の間をすり抜けるようにしながら、ひとつひとつの魂に触れてはやさしく撫ぜていく。

気づけば、人々は彼の音と姿に視線を奪われていた。

青年の体は、音をひとつずつ送り出すかのようにしなやかに調べに乗る。その動きは重さや堅さというものをまったく感じさせず、それでいて夜闇を突き刺すかのような鋭利さをその内に秘めている。

月光をその身に受けて、その姿はこの世ならぬ輝きを放っていた。


その音が若菜にふれた時、彼女の瞳から涙がつうっと一筋こぼれ落ちた。
ひとつ流れた涙はしかし、絶えるところを知らず溢れ続ける。堪らず、若菜は両手で口を覆った。

(どうして、このひとは、こんなにも…)

その続きの言葉はどこを探しても見つからなかった。
若菜の喉につかえて溢れ出す熱いものだけが、ただ、それを物語っていた。


青年の笛の音は、人々の想いをその身に連ねると、岩肌の上を這うようにゆっくりと崖を登り始めた。
岩の奥に眠る何千年の時と、岩肌に呼吸する苔の息。
それらをやさしく確かに呑み込みながら、その調べは岩壁を登り切る。

その時、旋律が最高潮に達した。

調べは樹木の幹を駆け上がり、枝先へと染み渡って葉をいっぱいに満たす。
全ての音色を吸収して膨れ上がった木々は、やがて、弾けた。

音は、月を目指して真っ直ぐに夜空に舞い上がる。
そして月が彼らのたましいの影を抱きしめて静かに瞬くのを、その場にいた人々は確かに見た。


最後の音が月に抱かれたとき、人々が視線を下ろせば、青年の姿はなかった。


余韻が、冷えた夜の吐息が空に消えていくように溶けるのを待ったのち、大巫女が舞台に姿を現す。
その終わりの辞がまるでどこか遠くの世界で響いているかのような感覚を、若菜は感じていた。

すべてが、月の向こうの出来事であったかのように。



その夜、若菜は青年を夢に見た。忘れられないあの調べが、頭の中に響いている。夢の中で、青年は舞台を去ろうとするとき少し微笑んだように見えたーーかつて若菜にも向けられた、あの少し寂しそうな笑顔だった。


ぼうっとした気分で目覚めたのち、若菜は朝餉をとる同僚たちのもとへ向かった。席について食事をつつきながら、若菜はふと、昨日のことを彼女たちに尋ねたくなった。

「ねえ、昨夜の『竜笛のひと』の演奏…、私泣いてしまったの」

しかし返答の代わりに若菜が受けたのは、振り返った彼女たちの怪訝そうな視線であった。



「誰のことを言っているの」


ー続ー











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