わたしのnote、ことはじめ。

拝啓、いくらか後のわたしへ。

いま私は部屋の一番日当たりのいいところ、南向きの窓際の机に座ってこの文章を書いています。

今日は風も少なくて日が照っているから、じりじりと部屋の片隅が焦がされている感じがします。一言でいえば、暑いのです。
でも夏の記憶とは違うのが、もう蝉の鳴き声は聞こえないこと。
耳を澄ませば、遠くに響く小鳥のさえずりと、たまに家の前を横切る小さい子のぱたぱた、という足音だけ(子どもの走る音ってほんとに「ぱたぱた」っていうんですよね、すんごく可愛い)が聞こえてきます。

とても静かな、穏やかな休日の昼です。

この安らぎの中で文章を綴ることの幸せを、わたしは大切にしたい。
というか、それがそのまま、わたしがnoteに文章を書き続ける理由なのです。

この頃、わたしはそれなりに大変な思いをしていましたね。覚えてるでしょ?忘れたとは言わせませんよ。
先行きの見えない不安に、自分への期待と現実の自分の望みとの葛藤。
でも何よりも一番つらかったのが、自分で自分を受け入れてあげられなかったこと。「あの人の方が素敵な容姿だから」「あの人はあんなに成功しているのに」「あの人のようにならなきゃ」「あの人のように…」そういう切迫感が積み重なって、自分自身を急かし続けていたような、そんな気がします。
それはもちろん気づいたからと言ってすぐになくなるものでもないから、今もきっとわたしの中に、そういう「わたしではない誰か」になろうとする想いというのは存在し続けているのです。

だけど最近同時に、自分自身にはある種の「限界」があるということを知りました。
わたしの場合それは体の不調という形で現れて、まあ詳しくは言いませんが「あっこれはダメだわ」…って、そう実感したんです。「もう無理は効かないんだわ」と。

これから先、ずっとこのままの不調が続いたらどうしよう。ずっとメンタルが晴れなかったらどうしよう…。
そういう向こうの見えない不安にとりつかれた一方で、私は一抹の安堵も覚えていました。

「もう、今の自分が自分であることを責めなくていいのだ」。

今までずっと、「今よりもっとやれる」「変われるはずだ」その一心で突き進もうとした私にとって、「もう出来ない」という気づきはある種の救いだったように思います。
それから先は、成長し変わることよりも、そのままの自分がどうしたら心が安らぐのか、穏やかな心でいられるのか。「無理をしないこと」に重点を置くように変われた気がするのです。


私のnoteは、私がわたしのために書いている日記のようなものです。
その日にあった小さな幸せ、胸がいっぱいになって笑ったり泣いたり心が静かに満たされたりしたことを忘れないように書き留めておくための。
目まぐるしく移り変わる外界にもまれて、自分自身の生を見失ってしまわないために。
その日一日生きたことへの感謝をたしかめられるように、そして何度でも思い出せるように。
ふらりと自分が自分を離れていってしまうようなときにも、書いた日記を見返せば、また「わたし」の感触を思い出せるようなものを書く。
私のためのヒーリングなのです。

そして、私の書いたものを読んでくれた誰かが、同じように小さな安らぎを得ることが出来たら。
とるにとらないくらいの小さな幸せかもしれないけれど、自身の生活や記憶の中にあるそれらに気づいてちょっと微笑む、そんなことのきっかけになってくれたら。
そういう思いで、書いていきたいと思っているのです。

…なんて思いの丈を綴ってきましたが、毎日同じだけの熱量で投稿を続けることが出来るのか、私にはわかりません。
書き続けるのがつらくなるときもあるのでしょうし、それ以外のことが忙しくなって心に余裕がなくなる日が来ることもあると思います。
書くことでわたしを追い詰めるようなことがあっては本末転倒です。
それに、追い詰められて書いたもので誰かが救えるとも思えません。

だから、無理をしないこと。
いつでも自分のための選択をしていくこと。
それをわたし自身との約束にして、書き続けていけたらと思っています。

「その日にあったちょっといいこと考えたことを、私と誰かのために」。


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