寛容であることの必然性 | 500文字のエッセイ
気がついたら3日間も日記を書かずにいた。言い訳はいくらでも思いつくが、何より今日はまぁいっか、が3日間続いたというだけだ。
そういえば小さい頃の僕は、三日坊主とよく言われていた。好きなことならいくらでもやったが、興味のないことや人に言われて始めたことは3日間でポイと諦めてしまう。
少し歳を重ねて、脱・三日坊主を掲げて色々な目標を立てたこともあった。一日のスケジュールを訳もなく緻密に設計して、その通りに過ごしてみようとしてみたりもした。
でも結局うまくいかないことの方が多かった。今思い返せば、うまくいかなかった原因は、継続性のなさというより、僕の時間に対する潔癖症が原因のような気がしている。
習慣が定着しない何よりの原因は、例外を許せないということだった。例えば毎朝6時からジョギングを予定していて、1日でも寝坊してしまった日があったとすると、一気に全ての計画を破談にしてしまいたくなってしまうのだ。
今でも人の都合や例外で自分の時間が振り回されてしまうことに対する潔癖感はぬぐいきれていないけれど、昔より幾分か寛容になれた気がする。いや、寛容になろうとしている、という方がまだ正確かもしれない。
習慣は、寛容さに比例するらしいのだ。
今日の文字数:514文字
サポートいただく度に、声をあげて喜びます。