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156/* 生活の柄

僕が心酔するミュージシャンの一人に、高田渡という人がいます。僕の年代でこういう話ができる人は少ないのが非常に残念なのですが、まだまだ色褪せずに残っている宝の一つです。

僕が高田渡をはじめとしたフォークソングに傾倒し始めたのは、おそらく高校生にあがってくらいからのこと。吉田拓郎を契機として、加川良や岡林信康、加藤和彦、西岡恭蔵、などなど、数えきれないほどのミュージシャンの音楽を聴き漁っていた。はっぴいえんどに感動したのは、もう少し後の話だ。

年齢も時代も追いつかない僕にとっては感じきれないものもある中で、とにかく彼らが築き上げた歴史に感動して、時代遅れのフォークソング狂いが誕生したのであった。僕は自分でも音楽を作るのだけれども、その時代の音楽から露骨に影響を受けているものが多いし、ギターを手に取れば迷いなく拓郎や高田渡を弾くほど、指や耳に染み付いてしまっている。

そんな憧れのミュージシャンの一人が高田渡という人で、高田渡に入り浸るきっかけとなったのが、『生活の柄』という曲でした。正直、こんな曲は何年経っても理解しきれないだろうなあ、と思ってしまうくらいに、すごい曲なのですが、最近なんとなく、「生活の柄」という言葉の感覚がわかるような気がしてきたのです。

僕はあまり、多くのものを持たない生活をしています。持たないように心がけているのもあるのですが、ないならないなりの生活ができるという確証はあるので物欲自体も割と少ない方です。

とはいえ、生活をする上でこれだけは欲しいとか、何かを表現する上で、何かを生み出す上で必要なものに関しては、投資をすることが多いです。例えば、絵を描きたいと思い立ったときに、家に鉛筆一本しかないのと、色鉛筆やクレパス、絵の具が揃っているのとでは、表現の幅が全然違ってきます。

「〇〇をしたい!」という衝動に従順であるためには、ハードルをできるだけ下げておかなければいけなくて、色鉛筆や絵の具を揃えることはまさしく、ハードルを劇的に下げるための施策です。同じ「モノを買う」という行為でも、物欲先行とは少し違うところです。

けれど僕の家はさほど広い家でもないので、そもそも家の広さ的な問題で手に入れることを諦めるモノもあります。他にもお金や時間など、様々な要因が重なって、手に入れられるモノの制限は決まってきます。

これっていわば、僕の「生活の柄」なんだなぁ、と思ったわけです。身の丈というやつですね。

僕は富豪でもなんでもないので、お金で解決できるものって限られていて、自分の生活の柄に合わせて、さまざまなものを選択していく必要があります。本当に必要なものは何か。生活を豊かにするためには何が必要か。などなど、お金で解決できる部分と、それ以外の何かで補うべき部分と、手に入れることを諦めるべき部分を、選択していかなければいけません。

例えば、家でもカフェラテが飲みたいからエスプレッソマシンを買おうかと悩んでいたところ、そもそも置く場所ないやんけ、と購入を保留にした。これが、今の僕の生活の柄です。自身の生活と欲望を天秤にかけて、物事の選択をするところに「柄」が現れてくるんですね。

でもエスプレッソマシンが買えないからと悲観することは何にもなくて、本当に望むのであればそれが叶えられるよう生活の柄を変えていけばいいし、制約があるくらいの方が頭や心が豊かでいられるなぁと思った次第です。

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