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ファン・マヌエル・リージョに見た、考え”続ける”ということ

ファン・マヌエル・リージョという人

ファン・マヌエル・リージョ(Juan Manuel Lillo)は、イングランドやメキシコ、日本、中国など、様々な国でコーチングをしてきたスペイン出身のコーチだ。周りからは“ファンマ“(Juanma)と呼ばれる。

私は、記者でさえも友人のように接する彼の生き生きとした明るい性格に引き込まれた。そして、そうした姿にサッカーを楽しむ態度を教わった。
そこから彼のことを調べていくと、サッカーは姿も行方も分からないものであるという彼の視点が少しずつ見えてきたような気がする。

彼は主観の集合体として、例えば社会のように、サッカーが存在すると考えているのではないか。
主観という各々の世界と、その世界が混ざって集まった合意としてサッカーが在る。

世界がそれぞれ異なり、世界同士が完全に混ざらないために、サッカーという存在が曖昧で実体を掴み切ることはできない。
明文化されたルールに基づくプレーだけがサッカーを意味するのではなく、サッカーの歴史やクラブの広告戦略、サポーターの暮らしまでもサッカーの一部だと言える。

そのようなことを彼は言語化していないが、感覚的に捉えているのではないかと私は考える。

彼のこと

そして、世界が乱立するサッカーという競技、文化、あるいは物体のなかで、彼は自らの意見を問い続け、自身のサッカーを作り上げてきた。
その中でいくつかの解任を経験しており、コーチのキャリアとしては順風満帆であったと言えないかもしれない。

しかし、他者が作り上げた“あるべきコーチ像”に自分を照らし合わせることよりも、自分が求め続けてきた“自らのサッカー”を優先したのだと捉えることもできる。
チームとしてリスクを冒して挑戦し、仮に失敗したとしても、自分が責任を負えばいい。

彼は、クラブから解任されることを恐れずに挑戦をし続けている。
クラブからも、サポーターからも嫌われようが挑戦をし続ける。
彼なりのリスクテイクの仕方をそこに見て取ることができる。
そして、無数の挑戦を経て生まれたサッカーは、とうとう彼の人生の分身であると言えるのかもしれない。

こうして、他者からどう見られるのかではなく、自分がどう見ているのかを強かに考え続ける彼の姿が私にはとても勇ましく見えた。
勝敗というコントロールが難しい事柄よりも、自身の信じていることに対して向き合っている。
スポーツとしての結果を超えたうえで、信じることのできる道筋を確かに持っている。

彼が15歳という若さでコーチを始めたことも重なり、私は人生をかけてサッカーを生きるその姿に圧倒されている。

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