なぜ私たちは頑張らなくてはいけないのか?

 高校時代、ダンス部の活動を一生懸命やった。体育祭ではチアダンスを踊り、文化祭では自分たちでテーマを決めて曲を選び、振り付けも考えて何曲も踊った。心が許せる友だちがダンス部にいて楽しかったし、人間関係の難しさも学べたけど、創作するのに時間がとられたり、厳しい先輩にきつく叱られたときは傷ついたし、悩んだことも確かだった。また応援団にも所属していて体育祭の時期はかなり忙しくしていた。

 でもダンスは好きだったので、マイナスの記憶はきれいにリセットされたような気持ちになり、大学ではまた好きなところに好きなだけ所属をして、新しくいろんな経験をしようとかなり新鮮な気持ちでいた。気付けば一時期、4つも団体に参加していた。睡眠時間を削って授業の課題をやり、深夜にスタジオを借りてダンスを踊り、授業の合間には、日本に来た留学生に日本語を教えたり、春休みは入学する新入生を迎える宿泊研修に参加して、大学生活を有意義に過ごすためにさまざまなことをアドバイスした。留学をしたり、海外研修を企画して、参加もした。これ以上にもたくさんのことをしたけど、書き出しただけでもこんなにいろんなことをしていたのかと、自分でも驚く。とんでもない活動量だった。

でも高校時代のように、いやその時よりも確実に大切な何かをたくさん得られたけど、同時に心を削られることもあった。しかも今思い返してみると、大切な何かを得るために自ら心を削っていたこともあった。そして自ら心を削ったことを無視して、なかったことにしようとしていたことにも最近気が付いた。自ら傷付いたことを無視していた。波長が合わない人たちと一緒に無理に活動したり、彼ら彼女らに一生懸命合わせて、作り笑顔をしていた。「嫌われませんように…」と心の中で唱えながら。辛いことがあっても、これは試練だ、耐えろ自分!と何度も言い聞かせて、心が悲鳴を上げていることを無視していた。

大学で4年間そう過ごしてきて何が起きたか。卒業後、予定していたことが何もできなくなった。就職せずにやろうとしていたことがあったけれど、直前にキャンセルせざる負えなくなった。今までいろんな場所に行き、いろんな人に会い、かけがえのない経験をすることが、最高に幸せだった。この世界には、まだまだ私の知らないことがたくさんあって、でもそれらを知るたびに無限にワクワクして、人生って楽しすぎるな、こんなに楽しくていいんだろうかと本気で思っていた。でもそんな思いが微塵も感じることができなくなり、いつもふつふつと湧き上がるような、元気や好奇心や探求心が根こそぎ奪われたような気持ちで、感じるのは不安と恐怖と、息苦しさだけだった。いつも自分がどうなってしまうのか不安で、最低限の外出しかできなくなり、なにもしないで家にいられることだけが私を安心させた。

卒業後予定していたことができなくなっただけでも、自分の心に深い傷を負ったのに、自分でもその理由がわからなかったことは私の心を苦しめ続けた。そして家族や友だち、周りの人にもなんと伝えたらいいかわからず、きちんと話せないことも辛かった。生きていけば生きていくほど、自分が自分ではなくなっていくような気がして、ゆっくりと心と体が分離していくような気持ちでいながら、ただただ時が過ぎていくのを待った。

これほどひどくはないけれど、今もまだ同じような感じでいる。相談できる人もいて、カウンセリングも受けているので状況はマシになった。

私は自分がこうなってしまって、いかに自分が人生で「頑張ること」に重きを置いていたかがわかった。それも無意識のうちに。怠けているとか、だらしないとか、「今の若者は…」とか言われるのが大嫌いで、絶対にそんな風に思われたくないという強い気持ちがあった。いろんなことに挑戦して、それが失敗するか成功するかはわからないけれど、一生懸命行動しているということがわかれば周りから「だらしないヤツ」というレッテルを貼られることはきっと避けられる… そんな風に思っていた。今思うと、この感情がとても怖い。人から嫌われないために、悪く思われないように… そんな風に頑張るのって、いったい誰の何のためだろうか。少なくとも私の人生は誰かに何かを証明するためにはない。人生を生きてきて振り返ってみてみたら、何かの証明になっていた、ということはあるかもしれないけれど、最初から誰かに何かを示すために、誰かから文句を言われないために、自分は正しく生きていますよと言うために人生を生きている訳ではない。そんなの窮屈ではないか。そんなことをふと思った。

自分が何にもできない今の状態を、ひどく嫌い、悲しんだ時期もあった。何もできない自分はなんてクズな人間なんだろうと、頭の中でぐるぐる考えていた。今でも少しそう思ってしまう。でも今までたくさんのことを知り、たくさんの経験をするために自分の心を自ら削っていたという事実を、自ら認識して、向き合い、自分の心の声をきちんと聞いてあげることが私にとって大切であるとわかったことは、私の人生でものすごく大切なことだった。今は辛いけど、自分にとって大切なことが分かったし、今後無視できないことだから、今わかることができてよかったと思うようにしている。

今はもう、前のようには頑張れない。まだワクワクするような気持ちや好奇心は湧いてこないし、体力もまだまだ元通りではない。でも今はそれでもいいと思うことにした。頑張れないことを受け入れようと思った。そしてこれから頑張ることになったときは、頑張ることが本当に自分の意志なのかと確認しようと思った。きっと何かのためになる、今は無理して笑っておこう…で頑張り続けていると、また心が死んでしまう。きちんと心の声を聞かなくてはいけない。私の心の声は、私が無視をしたら誰も聞く人がいなくなってしまう。

きっと世の中には、頑張る理由が納得できるものではないのに、頑張っている人がたくさんいると思う。いや、頑張る理由をわからせずにやらせよう、従わせようとする、何か強い力が働いているように私は感じている。それはお金を稼ぎ、自分の生活を守るために必要であることでもあるから、正直バッサリ切り捨てることもできないと思う。けれども、なんのために自分はこれをしているのか、果たしてそれは自分が納得できるものであるかはいつも考えておきたいと思う。いつのまにか、頑張る人であるために頑張る人がたくさん増えて、頑張れない、頑張らない人をムチで叩いて、社会から追い出そうとするような風潮が広まったら、とんでもない世の中になるし、人はみんな頑張れるはずで、絶対に頑張らなくてはいけなくて、頑張られないなら社会からドロップアウトすることを強制させる社会だとすれは、生き方の多様性を否定している。何かを成し遂げなくても、生きてていいに決まっている。私たちの社会がそんな生きやすい社会に変化していくことを、ずっと望んできた。

頑張れないこともあるし、頑張れない人もいるし、頑張らない選択をする人もいる。他人より優れているぞという優越感に浸るために、誰かを見下して少しでも自分の価値を自分で見出すために、自分は頑張ることで苦しい思いをしたのに、他人がそれを経験していないのは許せない、と思い頑張り始めてしまったら、結局頑張れない、頑張らない人を許せず、その人たちを攻撃して、頑張らないことを許さない社会にどんどん変わっていく。こんな世界になってしまったら、人はなんのための人生を生き、ここは誰のための社会なんだろうか。

だからもう一度思い出すべきだと思う。自分はなんのために頑張っているのか。今は見出せなくても、いずれ目的が見えてくるものなのか。頑張るのは自分の意志なのか、他人から仕方なく強制されているのか、それとも他に選択肢がないのか。

あなたの心の声は何度か無視できても、ずっとは無視し続けられない。気持ちは限界を迎えて、溢れて、そしてあなたの元々の弱点を破壊しにくるかも知れない。怖がらないで、そっと心の声に耳を傾けてほしい。自分の心と向き合ってあげてほしい。本当の気持ちを、否定しないで、受け止めてあげてほしい。たとえそれが信じられないようなものだとしても、時間をかけて受け入れて、それらと一緒に共存する道を見つけることが私たちには可能だと思う。あなたの気持ちは、あなたのものだから… 決して心の声を無視しないでほしいと思う。



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