高嶺の花/偏見という名の幻という話
それは気高さの象徴、山岳に佇む貴き誇り。
容易く届かぬ高嶺の、否、決して駒草に非ず。
いきなりこんな書き出しをして大丈夫かと少しばかり戸惑うが、今回は内容はなんと略奪愛だ。私のことをある程度知っている人が読めば、「おいおい急にどうした、得体の知れないセミナーでも受講して気が狂ったか」とか心配されかねないが、とりあえず至って平常運転だよ。
いやね、きっかけはシリーズ初期から追いかけていたアニメの(最新クールの)ワンシーンからだ。ちなみに引用元の作品について語ると取り留めがないので、少なくとも今回はスルーしよう。
「取られて悔しくないのなら、初めから自分のものではなかったはず」
―ログ・ホライズン、円卓崩壊編3話、クラスティ
当然ながら、本編のシナリオやシチュエーションなどもあっての言い回しなので、少し手を加えてしっくりくる文にしてみよう。
「たとえ自分の手に入れられなかったとしてもそれが悔しくないのなら、そもそも初めから自分のものになることも無いだろう」に、なるのかな。
え、まだちょっと分かりづらいって?
うーん、そうだなぁ、例えるなら……
ある日ある場所で、新しい出会いがあったとしよう。
そこである人(Aさん)に惹かれたとする。
ただ、Aさんは別の誰か(Bさん)と既に交際中だった。
この場合に、悔しさや羨ましさを感じるかどうか。もし特に感じなかったなら、仮にそのAさんがフリーであったとしても、自分のものになる可能性は少ないのでは?ということかな。
そう、上記の例に則るのならば、もしその誰かに本当に好意があるなら、やはり一度は自分の気持ちをはっきりと伝えるべきなのかもしれない……と気づいたのだ。
ちなみに今までの私はこれを完全に避けてきたのだけれど、最大の理由は"遠慮"。女性本人に対するそれと同時に、その交際相手に対する遠慮。後は自己肯定感とかが続くのかな。どうかな。
それに、もし仮に交際相手がいたとしても、必ずしもそれが何の問題も障害もなく円満に付き合っているとは限らない訳で。蓋を開けてみれば、「いや実は遠距離でお互い頻繁に連絡取ってはいなくて」とか、「最近ちょっと諸事情でこじれてるんだよね」とか、そんな可能性だって少なからず有り得るからだ。
そしてそんな可能性に、果たして自分が気付けるかどうか。そして辿り着けるかどうか。つまりは、本気で願わなければ、叶うはずの願いも叶わない。しかもこれって、普段の生活の中で意識することがないだけで、実は人生のあちこちに散らばっているのかもしれない。