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喪失感の喪失/或る筈の激情という話

届かない想いは置き去りになって、
ただいたずらに時は過ぎていく。
別れも告げられずそこに留まって、
ただひたすらに時が流れていく。

10月、母方の祖母が亡くなった。
昭和7年(1932年)に樺太は豊原町*1で生まれ、昭和20年(1945年)の終戦を期に本土*2へ引き上げを経験した。元は拓銀*3の電話交換手をしており、道警*4の事務職だった祖父と結婚し叔父と母が生まれた。元々身体が丈夫ではなく、幾度かの入退院と手術を繰り返しながら「孫の顔を拝むのは難しいだろう」と医者に諭され、しかしその初孫(私)が30歳を迎えるまで驚異的な胆力で生き永らえた人であった。

家族連絡網的な位置付けのLINEグループで、「どうも体調が怪しい」とは聞かされてはいた。特に先月に入ってからは酸素吸入器を付けたというので、これまでの様にはいかないかもしれないという予感があった。ただその一方で、これまで何度も死線を越えてきた人だったために今回も大丈夫だろうという希望もあった。

私がまだ子どもの頃の話だ。
両親は共働きで、祖父母の家は当時通っていた小学校と自宅のほぼ中間地点に存在した。体調を崩した時や両親が忙しい時、夏休み冬休みなど……1年の1/4以上は行っていたと思う。両親の離婚話が出てからは出戻り部屋*5(と書くと角が立つかもしれないが)に一時的に住まいを移し、その後は思春期特有のやつで母親としょうもない喧嘩で家を飛び出しては逃げ込んだ。

その後、いわゆる祖父母として大事にできるようになったのは社会人になる前後くらいだった気がする。ただし社会人1年目で疎遠であった父方の祖父が亡くなり、祖父母も先は長くないのだと何となく理解はしていた。海外赴任が決まった旨を報告した時には「出世街道なのでは」と誰よりも喜んでくれた。こちらに来てからは年に一度、決まって旧正月に数日間だけの帰省だったが、地元の味を忘れないようにどこの店で何を食べに行くかと綿密にスケジューリングされたのも懐かしい。
最後に帰省したのは昨年の旧正月。あの頃はまだ、例のアレが対岸の火事的な出来事として捉えられており、世界を席巻する少し前だった。それから2ヶ月足らずに日本との往来に制限が設けられ、現在まで続くなんて想像もしなかった。

近い将来、それこそ日本との往来が自由になった先の話で……地元に帰省できた暁には私は何を想うだろう。
例えば実家(祖父母宅)が主不在の空き家であることに堪えようのない寂しさ感じたりするのだろうか。あるいは他の場面で、違った状況で、何を見聞きして、私は何を想うのだろうか。

今はまだ何も想わず、かつ何も感じない。
既に旅立ったのだという客観的事実を冷静に把握するのみで、それに対して自分の内側から感情が湧き起こることはほとんど無いに等しい。ある筈の感情が、『失くした』という感情を現状失くしてしまっているが、果たして取り戻すことはあるのだろうか?

*1 現在のサハリン州ユジノサハリンスク。この当時はまだ1級町村で、後に日本最北端の市となるも、終戦を期に再占領される。
*2 離島地域目線だとこういった表現になる。"内地“なども同様。
*3 北海道拓殖銀行の略。バブル経済崩壊を機に財政破綻、一時はワイドショーを大いに賑わせた。現在は北洋銀行。
*4 北海道警察の略。県でも府でもないため少しだけ特別感がある。
*5 主に一軒家において、娘が嫁いだ後の空き部屋が諸般の事情で再利用される場合にこう表現したりする。

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